某日記

(後期)

平成13年2月21日(水曜日)

IPv6

うーん セキュリティホールメモ より。

某メーリングリストでかずさんとかが声を荒げてたことがあって、 その主旨は、 「なんで今すぐに IPv4 を置き換えることを前提にして話をするんだ」 ってことでしたな。長期的には IPv4 の置き換えであるのは確かとしても、 当面 IPv6 でしかできないところをまず制圧するのが、 IPv6 やってる人々の目標なんでしょ。携帯電話とか家電とか。 おそらく、世間の人が思ってるよりも、ゆるやかな移行を考えてるわけでしょう。

そういう場面で IPv4 を持ち出すから IPv6 が IPv4 の競合者になっちゃうし、 叩かれる余地がでてくるのよね。そういう観点からすれば、 「IPv6商用サービスの料金をIPv4サービスより大幅に安くするのはどうだろう」 なんて提案は馬鹿げてるし、そういう無用の競合を生む懸念を周囲に 与えるという点で害でしかない。 問題の本質がわかってないマスコミがそういうことを言うのは、 大きなお世話以上の何者でもないんじゃないかな。

いやまあ、IPng のモチベーションとして 「IPv4 は(あたかももうすぐ)枯渇する」という危機感を煽った方の 読み間違いってのもあったし、そのプロパガンダを聞いたことがある 人からすれば、IPv6 サービスが始まったらすぐに IPv4 の代替を目指すんだ、 という誤解をするのはわからんでもないが。

マイライン

うむ

うーん

このへん を再利用しようかと思うのだが、どこ検索してもマイクロコードの ライセンスがわかんないんだよな…。 こういう話もあるし 。 ライセンスがいいかげんなコードは commit できないんで、 作ったとしても commit できない。 困ったなぁ…。やるとすれば dynamic loading と pkgsrc だろうなぁ。

toolchain

前にも調べたことがあるのだが、けんと様×libstdc++ がらみで、 もういちどライセンスに関して調べてみる。 やっぱりいいかげん過ぎて腹が立つ。

ライセンス形態:

  • libstdc++ : 不明。
  • libio : GPL 。 ただし、gcc でコンパイルしたときは GPL 以外の何か with 偽 GPL で 詳細不明。

だからさぁ、GPL っていう切れ味鋭い刃物を振りかざすなら、 切っ先を向ける方向に対して責任持ってよ…。 それも FSF の配布物でこれやられちゃあねぇ…。

BSD ライセンス使う人は「あらゆる利益を放棄」することによって 「責任放棄」してるわけで、そこに最低限の責任を果たしてるわけだが、 逆に GPL 使う人って、Copyleft っていう「権利」を「主張してる」くせして、 その「権利主張」に対する「責任」が果たせてないことが多い気がする。 つまり、自分に甘くて他人に厳しいんだよなぁ。偏見?

やっぱり、「こういうものは使わない」が正しいよな…。

中学生日記

業界震撼 :D

ONE

うむ 。 まあ、私は大昔書いたとおり、ONE のシナリオに対する評価は低いんだけど、 でも、障害者に対する差別というのはないと思うなぁ。 「障害者に対してどう接していいか、ということに関して、 ごくごく日常的に健常者が感じている、ある種の悩み」の描写はあったけど、 人としての扱いは、どの女の子にも平等でしたし、 澪に対して特別な接し方の違い(=差別)があったようには思えないですな。 この人が全員倒してないだけなのかもしれないなぁ。

まあ、タブーを忌避しなかった勇気は認めていいんじゃないかと思うし、 忌避しなかった以上、 こういう意見が出るリスクがあるのもしょうがないんでしょうね。

しんくろ

やあ 3 に、あの CD 受渡しとか。

はんぞうもなーとして、やあ 3 と各駅停車でまたーり音楽話をしつつ帰る。

Netra X1 $995

ss さんも書いてたし、だいぶ前に某チャットでも話題になってたけど、 うーん、萌えるなぁ… 。 「1U で USB の穴あります」って、そりわ、 とりもなおさずヲレに、 UX256 と一緒にラックマウントして、 世界で唯一の「NetBSD/sparc64 プリプロ環境」を作れっていってますカ…

でも、USB 動かなそうだなぁ…。少なくとも、files.sparc64 には 記述が無い。 そもそも、この Netra で NetBSD がブートするかどうかもあやしい。

USB MIDI

安心してくらはい 。 私の書いた umidi 、 見てのとおり十分オーバースペックです。 quirk code くらいはパクれるんじゃないかのう。 BSD ライセンスって GPL の配布条件とはバッティングしないので、 これを Linux カーネルと組み合わせることには問題ない。 もちろん、その場合は GPL に従ってオープンにしないといけないんだが、 パクられた側にはなんにも影響ないし、別にソースそのもののライセンスが GPL で取って代わられるわけでもない。この辺、世間には誤解があるかもね。 よく、「GPL じゃないと accept しない」とかいう話があるけど、 「なんでよ? べつにそこだけ BSD ライセンスでいいじゃん」 とか思うことしきり。そりゃ、GPL なソースに対するちっちゃなパッチに BSD ライセンス主張されても困っちゃうだろうけど。

正しい USB MIDI デバイスは見てみたいのぅ…。 でも、あんな複雑なデバイス、好き好んで作らんと思うぞ :D 。 YAMAHA USB MIDI くらいの仕様が一番手ごろ。 YAMAHA からいただいた資料を見た感じでは、 ハード作る側からしたらこのくらいが作りやすいんでしょうな。

平成13年2月22日(木曜日)

ああもう

黙れこのクソ毛唐 勝手にサブジェクト変えるなこのすっとこどっこい

などと言ってはいけません :D

うーん

ちゃんと議論を成立させてよ…。以下日本語要約:


…だから詭弁だって。バカじゃないのか、こいつらは。 日本語だったら、もう何年も前にけちょんけちょんにのしてるところだよ。

でもねでもね、これ、勝ち目ないんですな。なぜなら、 decision process ってもんが XFree86 にはない。 樋浦さんが以前「デモクラシーではない」とか言ってたけど、 むしろ逆で、責任持って強権発動する人が一人もいないのが問題なんですわ。 誰かが責任をもって decision してくれれば、決着がつくし、 その結果不本意なことになってもある意味しょうがない。 そういう形になってないので、彼らが自分たちの意見を取り下げない限り、 いつまでたってもこの論議は彼らの負けにならない。 で、後で、「え、君たちは論破できなかったよ」とでも言ってしまえば、 それでおしまい。

うーん、どうしたもんか…。

Juliusz が非常に良識のある「conclusion」を示してくれたのう 。 結局ですな、__STD_ISO_10646__ という feature そのものが、 very good *political* arguments によって C99 に ねじ込まれたものなのである、というのが本質なんですね。

結局 Robert が折れた。問題の本質に関しては誤解してる気がするけど。 今回の話は、本質的に Unicode 一本槍がいいかどうか、 という論議とは独立なんですけど。純粋な互換性/移植性問題に過ぎない。

平成13年2月23日(金曜日)

再編

市場再編がはじまりましたな

雑誌

見本誌が届く。でも、宛て名書きに名前書き忘れてますがナ :D。 宅配屋さんは、住所 + 電話番号認証でうちに届けた模様。

IDE

ううむ :D

昨日

神保町でお買い物。

  • まほろまてぃっく(3)
  • ヨコハマ買い出し紀行(8)
  • ちょびっつ(1)

あと、何か高岡 2F で買ったけど、恣意的忘却。

Unicode ラブラブな人に贈る Unicode との付き合い方・プログラマー編

私はもちろん CSI ラブラブな人なので Unicode 前提の プログラムなんて物は書きたくないんだが、 CSI 否定の立場に立ったとして、 いかにして Unicode ラブラブなプログラムを書けばよいのか、 という話のメモ。ブレインストーミングなアイディアのメモなので 話がどんどん飛びます。

大前提は「単言語ならば ISO C locale を使う手がある。 多言語化するつもりなら、思い切って ISO C locale は捨てましょう」だ。 ISO C の当初の思想、現状の実装、insanity __STD_ISO_10646__ 。 ICU など。

言語は Unicode といえども不可欠な概念である。 如何にして「言語」を扱うか。locale の考え方。 ISO C locale の欠点。multilocale への招待。

国際化と地域化。Sun の定義。 もうちょい広い解釈。I18N/L10N 分離の原則。insanity 「\u」。

既存のコードの扱い。EUC などの既存のコードは無視できない。 Unicode ラブラブプログラムでは、一度 Unicode に変換し、 必要に応じて元に戻す必要がある。 そうでないと使われるプログラムにならない。 変換の可逆性の問題と言語情報の重要性。

CSI 思想との「共存」。 世の中には CSI が正しいと考える人もいる。 あなたは別に CSI 思想でなくてもいいし、その存在を無視してかまわない。 しかしながら、CSI 思想の人が困るようなことをするのは避けるべきである。 きっと、猛反発を食らうから。そうならないために、 極力少ないコストで CSI 思想と共存する方法について。

平成13年2月25日(日曜日)

おととい

肉体会。その前に CD 購入:

  • せんせいのお時間 (9)
  • セガゲームミュージック Vol.3 復刻版

セガゲームミュージック Vol.3 はオリジナル持ってるんだが…

きのう

大学の同期と飲み。

DC

こんな感じ:


平成13年2月26日(月曜日)

うーむ

それは 、 (無意識的な)悪意をもった解釈だと思います。

むしろ「偏見?」と3文字書くことによって、 そういう偏見を本当に作り出そうとしてるように見えました。
という「結論」を言いたいがため、の文章、というか。 そこは多分に文章の書き方の問題 (たとえば「偏見というよりはやつ当たりでしょうね」という導入のしかたとか) なのだと思うのですけども。

まあ、私の元の文章は意識的に悪意のある文章になってるわけだけど、 別に GPL そのものや真面目に GPL を適用してる人には悪意はありません(ぉぃ。 しかしながら、私自身はあの辺の私の印象は 「印象としてそんなに間違ってない」と思ってるけど、 本質論を言えば Mad-P さんの言う通りで、だからこそ「偏見」なんですな。 そういう偏見を持つことや、 そういう偏見を表明するのが良いこととは思ってないけど。 それは私自身が自覚してる私自身の偏見なんで、 そこを「社会的偏見」というようなものと恣意的に混同して 「そういう偏見を本当に作り出そうとしてるように見えました」 とか言われても私は困ってしまうわけですね。

だから、おおむね Mad-P さんの言うことは同意できるわけですけどもね。

それは考えすぎですがな 。 私自身はできれば GPL には近寄りたくないけど、 信念をもって(という言い方がきつければ「正しく」) GPL 使ってる人はそれはそれでえらいと思ってるもん。

むしろあそこで「偏見?」って書いてるのは、あの文章が 「偏見かもねー真にうけない方がいいかもよー」 と読者に教えてあげる意図なんですな。 別に「偏見?」とか書かなくても、 あの文章はあからさまに偏見入った文章なんで、 ちゃんと文章読める人は一般論として読まないわけですが、 一つには、そうでないアホが勘違いして真に受けられても困るから、 わざわざそれを示しといたってのがある。 いや、私は何も困らんけど、そこは善意という奴で。 あと一つは、「それは偏見だよ」とわかりきったことを 長々と突っ込まれることを避けるための意図ですな。 そういうつっこみは単なる野暮なんで、されるとげんにょりするわけですが、 かといって、さらにその先を勝手に深読みして曲解されても困るっす。 それは単なるいいがかりっす。

ということを書くのも野暮かもしれず。

ああ、違和感はそうかもしれませんね 。 私は、下の文章の削除した部分でも、 そういうような個人的解釈をしてますから。 本質論と比較しちゃったら、違和感があるでしょう。 それも含めて「感情論」であって、ある意味「偏見」なんですな。 純粋な感情論として、賛同してくれる人もいると思うけど。

Which do you choose, GPL or BSD license?

何か、前にもどっかでこの辺の私のスタンスについて書いた気がするけど。 あくまでも私の解釈による私のスタンスなので賛同するもしないもご自由に。 私の結論は、暗に「BSD ライセンス使おうね」ってことを 表明しているに他ならないので、逆の立場、たとえば、 この辺から Think GNU とかも参照することを薦めておくと公平でしょうな。

BSD ライセンスや MIT ライセンスと、対する GPL の大きな違いは、 「そこに思想が込められてるかどうか」でしょう。 「FSF の思想、言うなれば『ソースはみんなの自由にしよう』思想」を 「思想」と呼ぶのなら、という条件が付きますが、 私はあれは「まぎれもない思想」と解釈していますし、 「GPL を自分のソフトウェアに適用するということ」は、 「少なくとも『ソースはみんなの自由にしよう』思想に関しては、 まぎれもなくその思想に賛同しているということ」と解釈してます。 一方で、利用者に対してはその「思想への賛同」 は必ずしもあてはまらないんだけどね。 この辺の解釈に関する説明も面白いと思うんだが、 純粋に論理学的な話なので省略。 以下、そういう前提の元でよろしゅう。

BSD ライセンスや MIT ライセンスというのは、 非常にメカニカルな文書でして、その中には何ら思想というようなものが 認められません。あるとすれば、

このプログラムは自由に使っていいよ。でも、 わしゃプログラムの動作に関して責任負いたくないから、 使って何か起こっても、それは使った人の責任でお願いね。 その免罪符を貼るためにこうして著作権の権利を行使させてもらうよ。 後の権利は主張しません。
という意思表明ですな。

一方で、GPL ってのは、とどのつまり FSF の理想であるところの、 「ソースはみんなの自由に」思想を実現するためのものですから、 上のような免罪符に加えて、

あ、あと、このソースを使うのなら、 このソースに、ある一定の基準で関係しているプログラムは全部、 「ソースはみんなの自由に」思想に従ってもらうから。 これは、私の著作権にもとづく権利行使の一つです。 じゃ。
って書いてあるわけですな。もちろん、GPL 自体はもっとメカニカルに 書いてありますし、こういうふうに「加えて」とか「あ、あと」 とか書いちゃうと、 そっちが従みたいにみえるけど、もちろん GPL に込められた意図は こっちが主ですね。

でね、どっちを選ぶか、なんてそれはその人の自由なんだけどさ、 選ぶからにはちゃんと中身を理解してからに欲しいんですね。 これは、BSD ライセンスを選ぶ場合でももちろんそう。

GPL の最大の功績であり最大の罪でもある部分というのは、 「思想」を利用しやすい形でパッケージ化してしまったところでしょうね。 以下、デメリットだけ書くのでメリットが無いと勘違いしないように。 で、このパッケージ化ってのは、 えてして思想そのものを覆い隠してしまうし、 「考えないで GPL を選ぶ」という選択肢を可能にしてしまう。 (主張したいことに関する本質的事項じゃないから文脈から削除→) 私は、あくまでも個人的には、 Linux の linux/include/linux/* や libstdc++ において GPL の矛先がどっち向いてるんだか怪しいのは、 こういう「パッケージ化」が遠因としてあると思ってます。 まあそれは、「思想のパッケージ化」じゃなくて、 単に「ライセンスのパッケージ化」に原因があるだけかもしれんけど。 それならば、BSD ライセンスだって同じ批判をされるべきなんだけどね。

(主張したいことに関する本質的事項じゃないから文脈から削除→) まあ、いずれにしろ、 こういうあいまいさは、利用者の立場としては、はっきり言って困るのよ。 で、それは本質的には GPL だからとか BSD ライセンスだからとかは 関係ないんだけど、個人的感情論としては、「GPL は、 (少なくとも私にとって)利用者の負担が大きい先鋭的な思想なので、 『考えないで BSD ライセンスを選ぶ』よりも、 『考えないで GPL を選ぶ』『矛先をちゃんと表明しないで GPL を使う』方が より害が大きい」と思ってるわけね。 繰り返すけど、本質的には五十歩百歩なんだけどさ。 もちろんそれを作り手側が「利用者側の勝手な言い分」とか、 「それは GPL のせいじゃなくて適用の問題」としてばっさり切るのも自由だし、 逆に利用者側も「怪しいから使わないことにこしたことはない」で済ますのが、 ある意味では正しいんですけど、でもそれって別の意味では不幸でしょうな。 だから、GPL を使う人は、この辺は BSD ライセンス以上にきっちりと やって欲しい。もちろん逆に、利用者側も、 そういうあいまいな部分をちゃんと問いただす姿勢も重要でしょうな。 どっちも強制ではないし、私はどっちもめんどいから特に必要がなきゃやらない、 という姿勢だったりするから、あまり偉そうなことは言えんけど。 それを他人に押しつけるつもりはありません。

(主張したいことに関する本質的事項じゃないから文脈から削除→) そういった一部の GPL 適用者批判は置いておいても、私は、ライセンスにそういった「思想」を込めるのは面倒くさいし恐いのと、 「利用者が、オリジナルのソースを利用する時の自由度」に配慮して、 単なる免罪符でしかない BSD ライセンスを使う、 という安易な解決策を選んじゃうんですね。 私は、「思想の主張」や、それによる「他者の行動の制限」には、 それ相応の「責任」が化せられると考えてる。 それが、どの程度の責任なのかってのは、人によって解釈が違うだろうけど、 逆にいえば私は、「どの程度責任持たんといかんかわからんから嫌」なわけ。 もちろん「思想を表明しっぱなしで責任取らん」っていうスタンスは 間違ってないけど、私は嫌。 それを負うかどうかってのは任意なんですが、 いずれにしろ、そういう責任について私は考えたくないし、 派生物をクローズにして金とろうがどうしようが、 その人の自由にすればいいと思うし。 商用 UNIX というか、X の世界なんかはむしろ、 そういう土壌で育ってきたわけだしのう。 「まあ、一定のフィードバックはしてくれるでしょ」っていう、 ある種の性善説、というか。 一方で、GPL ってのは、Gosling Emacs 騒動などの RMS の 一連の経験から生まれたある種の性悪説的思想に基づいてる。 どっちがいいとか、どっちが悪い、ってもんではないけど。 性善説、性悪説、ってのは、 Think GNU に書いてあった気がするけど、見つけられなかった。 まあいずれにしろ、 他人に余計な制約を課さないことと、自分に余計な責任を課さないところが 私のお気に入りなんですね。

で、私はちゃんと「BSD ライセンスに対する租借」 をした上でその選択肢を選んでるので、 「ライセンス選択に関する最低限の責任は果たしてる」つもりだし、 それ以上の、たとえば「免罪符を貼るのは無責任だ」とか 「そういう安易な決め方はけしからん」という批判は、 批判でも何でもない「単なる考え方の違いを他人に押しつけようとする意思」 の表明でしかないでしょうな。 一方で私は、「GPL をちゃんと租借したうえで使うぶんには、 何ら批判されるべき点はない」と思ってます。

あと、BSD ライセンスって短かいのも利点の一つだのう。 大文字部分が読みにくいけど。 こういうことって、私は重要だと思ってたりして。 あの当時の時代背景と RMS の行動力が無かったら、 GPL なんてめんどいものは誰も使わなかっただろうなぁ、とか思う。 一方で、GPL は、一旦解釈しちゃえば「GPL Ver.2 に準拠」 と一言書くだけで何にでも適用できる、というメリットがあるので、 一概にどっちが楽とは言えない。これは単に私の印象として、 BSD ライセンスのほうが楽だと思ってるだけ。

こういう「なんで私が BSD ライセンスを選ぶのか」という話は、 私自身は割といろんな人から聞くし、 みんなだいたいこういう考えかたなのだけど、 一方で「なんで GPL を選んだのか」という話は、 寡聞にして聞かないのう。単に寡聞なだけなのか、 みんな GNU Manifesto に賛同してるから、言うまでもないだけなのか。 私はこんな面倒なことには極力かかわりたくないから、 もし、こういう材料をちゃんと判断したうえで GPL を選んでるのなら、 純粋にえらいなぁ、と思う。とかかくと、また「ほめ殺し」とか 曲解されそうだが :-P

…もしかしてみんな、「オープンソース運動への賛同」という意味で GPL 使ってるのかな…。 「オープンソースであること」と「GPL であること」ってのは、 結構違うと思うんだけどねぇ。

公開した後で、「GPL 適用のあいまいさ云々」は、 あまりに論点をぼかし過ぎることに気づいたので、文脈から削除。

平成13年2月27日(火曜日)

ライセンス

なんかどうも昨日の文章はまとまりがないなぁ、 とかシャワー浴びながら考えてみたり。

一つ明確にしておかんといけなかった点を明確にしてなかったのだけど、 私が BSD ライセンスを選んで GPL を選ばない理由の出発点は、 「利用者に対して GPL みたいな余計な制約を与えたくない」 ということなんですな。 別にそれ以上の理屈を付けんでも、 「私はそういうポリシだから GPL 使わん」 で済む話といえばそんな気がする。 しかしながら、私のポリシとしては、それなりに 「権利主張をしていることの自覚」と「責任」というのも重要なんだけど。 もちろん昨日の書いてあるとおり、 権利主張に対する責任をどこまで負うかというのは人によって違うから、 人にそういう考えを押しつけることはできんけどね。

で、元の話に戻って、 「なぜ私の印象として、 BSD ライセンスよりも GPL がいいかげんに使われてるように見えるのか」 ってのを考えてみたら、実は単純な話で、 「GPL は厳しいライセンスなので例外付けないと使えない場面があるけど、 BSD ライセンスは緩いのでそういうことはまずありえない」 なんじゃないかな、という気がしてきた。 で、GPL の例外適用の例ってのが linux/include/linux とか libstdc++ なんですけど、そういう例ってのは実はそんなに多くない。 でも、私が知っている例でことごとく、 その例外条項の扱いがあいまいなんですな。 しかも、FSF があいまいなことやってる。 だから、いんちきくせーなー、と言いたくなるわけね。 やっぱり、安易に付けるんなら BSD ライセンスのほうが実害が少ないよ。

そうそう、私がこういうことを書くのは、もちろん BSD ライセンスを 使ってくれる人が増えるのを願ってるからです。 使う側もいろいろ気にしなくてよくて楽なので。 性善説に身を委ねるおおらかさと、 他人の derived works に対する寛容さがあれば、GPL は必要ない。 従って、GPL に対してフェアじゃないかもしれないけどあしからず。

COPYING の先頭に書いてあるこれですか?


これ、前にも fj.os.linux で話題にしたんですけど、 これを根拠に「linux/include/linux/* が GPL でない」 なんてことは言えないんですな。 きっと、 気づいた時には Linus の一存ではライセンスを変えられない状況になってたので、 後づけでこういう文書を書かなきゃいけなくなって、 それゆえに、わざとこのあたりをぼかしてあるんじゃないかなぁ、と思う。 その推測が正しいとするならば、 Linus も考えなしに GPL 使ってしまった一人だと思うぞ、わたしゃ。 根拠ないけどね。それが邪推としても、上の文章は、 「システムコールのようなインターフェースには著作権が主張できない」 っていうごくあたりまえのことが書いてあるだけで、 「linux/include/linux/* というソースが GPL でない」 という根拠足りえないんです。実際、FSF がコントリビュートした ソースには、GPL である旨書いてあったりするし。好意的に解釈して、 「たぶん Linus は訴えないだろう」 くらいしか言えない。でも、ライセンスってそういうもんじゃないと思うし、 私にはすごく無責任に見えるなぁ。

で、やっぱり、「こういうものは使わないに越したことはない」 という結論にたどりつくんだが…。

やっぱり適当だなぁ…

えーと、その「格別の許可」の適用範囲があいまいって話ですな 。 あの文章だけだと、実は「自分で互換の include file を書けばいいよ」 かもしれない。「normal ってどういうことだよ」っていうか。 もちろん、Linus 自身がどう言ってるかは知ってるけど。 normal なんてもってまわった言い方せずに、 すっきり書こうと思えば書けるはずなんだが。 もう一つ注記しとくと、「linux/include/linux/* が GPL でない」の GPL は、 「一切の例外条項のない Genuine GPL」っていう意味っす。 そこがズレると話が合わないっす。

まあ、重箱の隅突きかもしれんけどね。でも、やっぱり、 もうちょいライセンスってものの重要さに配慮してほしいんだな。 上のライセンス条項は、Linux-1.0 では既に存在していたから、 もちろん当時はこんなに普及するとは思ってなかったんだろうけど、 逆に言えば、そういうこともあるんだから、 最初っからちゃんと考えて付けましょうね、ってことかな。

昨日の「オープンソースって GPL のことだと思ってないか」ネタに タイムリーなところで、 こんな話 とか。

オープンソースコミュニティは毎日, ソフトの知的財産を大量に生み出している。 そうしたオープンソースソフトはGPLによって著作権が保護される。
こらこら、意味が変わっとるがな。 原文
Open source is creating tremendous intellectual property in software that is copyrighted through the GPL every day.
です。確かに、日本語ではこのニュアンスを伝えるいい方法がないかもね。 日本語訳の方は and 的ないいかえをしてるけど、 それは非制限用法でしか許されない。上の文章は制限用法。 「そうでないもの」があるかもしれないし、ないかもしれない、 という暗示があるんですな。

ううむ

昨日の夜中あたりから某チャットがアクセスできないんだが、 もしかしてやられちゃった?

ううむ

清拭 において思わずお兄ちゃん恥ずかしいよぅ的想像をしてしまう ダメお兄ちゃんであった。

送別会

の申し込みとか。

Win95

今日はなかなか雑務に忙しかった。Win95 で 3c905TX を認識させるのに一苦労。

買い物

飯のついで。

  • BASS Magazine (通称ベーマガ) 3 月号
  • アフタヌーン 4 月号

先週やあ 3 と、「ポールジャクソン(父)ってどうしてるのかねぇ」 という話をしてたが、噂をすれば影か、小さく出てた。健在。

ううむ

(さす)ればなんか開ける (恣意的解釈) において思わずお兄ちゃん恥ずかしいよぅ的想像をしてしまう ダメお兄ちゃんであった。

平成13年2月28日(水曜日)

文字コード

すげー

全文を引用しつつ切り刻むと、まず、

文字コードにはISO (International Standardization for Organization、 国際標準化機構) コードが規定されている。

の「ISO コード」って、どれ? 私の知ってるだけで、 ISO で文字コードそのものを規定しているのは、 646, 2022, 8859, 10646 くらいはあるんですが。

次に、

8ビットの最上位は各国語に対応するビットとして、 あとの7ビットでコードを決めている。

この文脈での「文字コード」は、好意的に解釈して ISO-646 の ことだと思うけど、厳密にはでたらめ。

で、「文字コード = ISO-646」として、

代表的なものでは、ASCII (American Standard Code for Information Interchange、 アメリカ情報交換標準コード)や、 UNIX 用の AT&T社が決めた EUC (Extended UNIX Code) などがある。

の、ASCII はまあいいとして(歴史的経緯を考えるとちょいと納得できんが)、 EUC は ISO-646 では表せんぞ。これは ISO-2022 になる。

だいぶ頭が痛くなってきましたが、最後、

JISコードでは、よく使われる漢字2965個はJIS第1水準、 その他の漢字3390個はJIS第2水準としてコード化されている。 JIS漢字コードとシフトJIS漢字コードがある。

いまどき第一水準第二水準に言及してるのはまあいいとしても、 「JIS コード」ってどれよ。 私の知ってるだけで、JIS で文字コードそのものを規定しているのは、 X 0201, X 0202, X 0208, X 0212, X 0213, X 0221 くらいはありますぞ。で、まあ、X 0208 と好意的に解釈したとしても、 「JIS漢字コード」ってどれよ。JIS の定めるエンコーディングには、 7 単位と 8 単位があるし、実際にこれをどうインスタンスするか、 というのはいわゆる通信者間の合意事項だったりして。 よくあるシナリオが、EUC-JP だったり ISO-2022-JP だったりするわけですな。 私が「JIS 漢字コード」と聞いたら PC-9801 のプリンタを思い出すので、 SI のあとに 2 バイト単位の 7 単位コードがダーッと送られる様を イメージするけど、 人によっては JUNET code (≒ISO-2022-JP)を思い出すだろうな。

…論文? 「直せ」といっても、根本的にデタラメなんで、 全部書き換えないと直らないでしょうな。

…もしかしてこれって、どっかの本の孫引きだったりしません?

Inter-Diary Comedy

というか 、 道無さんとこに晶が現れた時から、 「いつになったらおさかなさんとこのレンと朝の漫才(via ハイパーリンク)を 始めるのかなぁ」 とか期待して見てるんですが :D

BSD ライセンスが楽かどうか

いや 、 論点は「Linuxカーネルのシステムコールを普通に使う場合」 っていうところでの「normal use」の解釈なので、十分重箱の中でしょう。 その外の話はしてません。

あと、 それは違います 。 BSD ライセンスのソフトそれそのもののライセンスは、 BSD ライセンスでしかないんです。たとえ、Makefile で明示的に GPL な ライブラリをリンクしてたとしても、あるいは、謎のツールを叩いていても。 それはそのソフトウェアのライセンス(=BSD ライセンス)とは直接関係ないのです。 ただ、その結果のバイナリを利用したり配布したりする際に、 両方のライセンスが加重されて適用されるので、 矛盾するライセンスが付けられないだけのことです。 そういうレベルでは、BSD ライセンスと GPL には矛盾がありませんから、 単なるバイナリ配布時の制約として、GPL の規定に従って 「コンパイル時のすべてのソース」に誰でもアクセスされることが要求される、 という、ソフトウェアそのもののライセンスとは 独立の要求事項が発生するだけです。 ここは、非常に誤解されやすい部分でしょうな。

従って、

BSDライセンスで出そうとするとこれらの問題を全部クリアしないと 権利主張に対する責任を全うできない、 GPLで出せばこれらの問題を考えなくてすむ

という主張は的外れです。 これは、BSD ライセンスで必要なら GPL でも等しく必要でしょう。 これをもって、 「(それを明確にするための)エネルギーが、 BSD ライセンスでは GPL よりも必要」 という主張をするのは、BSD ライセンスに対してアンフェアですし、 結局、「純粋に自分のソフトにどういうライセンスを付けるか」 という観点における 「安易に付けるんならBSDライセンスのほうが実害が少ないよ」とか、 もっと抽象的な「BSDライセンスだと楽」に対する反論になってません。 もし、 「バイナリ配布者にとっては何も楽にならんし、GPL の方が楽かもしれん」 という話なら、そうかもしれないけど、ここではそんな話はしてないですね。 ←そうでもないか。「実害」という話だったら、 「バイナリ配布者にとっては GPL の方が楽かも」というのは反例ではあるな。 でも、私はそう思ってないけど。

で、さいわいにも今のご時勢、パーツは ちゃんとコンポーネント化されてることが普通なので、 単にライブラリとしてリンクするだけでいいし、 ソースをそのまま import する必要性はほとんど存在しない。 いや、GPL なソースを import したっていいんですけどね。ruby みたいに。 いずれにしろ、BSD ライセンスを使うことによる こういう禁欲 が要求される場面って、 「BSD ライセンスなソースを自動生成したい場合に、 『生成されたコードには Genuine GPL を適用すること』 とかいう規定があるコード生成ツールを使えない」 ってくらいしか思いつかない。 一方で、生成されたコードの規定があいまいだったときには、 生成したコードに対して「GPL と矛盾した権利主張」 が適用されないとも限らないし、私のここまでのライセンスに対する 話ってのはむしろそういう可能性に対してスポットを当ててるので、 たとえ自分のソフトが Genuine GPL だったとしても、 やっぱり明確にしなきゃいけない、ってことになる。

いや、「normal use」にしても、コード生成ツールの例にしても、 そういうあいまいさを排するのが、 本来のライセンスっていうものの存在意義だ、という話をしてるだけです。 だから、本質論になったら重箱のすみ突き的な話になるのはしょうがない。 しかしながら、実際にそのとおり実践するかどうかは、 また別の問題だと思います。 いずれにしろ、「本質を理解すること」が重要だし、 「本質を知ったうえでどう行動するか」は、 もはや各人の裁量という話だと思いますね。

うーん 、 そのトレードオフは「混ぜらんない不自由」が BSD ライセンスのせいみたいで いまひとつ釈然としませんです。 どうも、(無意識的に) GPL が優位である、 という認識のもとに立った意見、というか。 BSD ライセンスを選ぶか、それとも GPL を選ぶか、 という観点でトレードオフとして適切なのは、 「誰かに独占されてしまうという間接的な不自由が誰かに与えられる 可能性を認めるか、それともソース公開の義務という直接的な不自由を 利用者に対して課すか」という対比でしょうな。

まあ、私は「混ぜられるんなら混ぜてもいいじゃん」なんですが。 「混ぜる」というのは二通りの意味があって、 英語だと mingle と mix で端的に表せるそれ。 GPL と BSD ライセンスみたいに、矛盾しないものならば mingle したって構わないと思うわけ。 ただ、細心の注意を払う必要があって面倒くさいけど。 でも、「だから GPL に統一すべきだ」とか、 「だから BSD ライセンスに統一すべきだ」 なんてことはいいたくないですな。 それって Markus の行ってる Unicode 原理主義と全く同じだもの。

閑話休題、この「誰かに独占された場合に不自由を受けるのは結局誰か」 というのがポイントで、私の個人的な考えとしては、 結局は「作者自身」以外の何者でもない、と思ってるんですな。 逆に言えば、 「第三者による第三者の不利益まで面倒見るのはおこがましい」 ということ。だってさあ、そこに「自分」以外をあてはめたら、 それは「オレの作ったソフトが誰かに独占されたら、お前困るだろ?」 って言ってるのと同じで、これって尊大以外の何もんでもないと思うしのう。 そういう意味で、私が基本的に GPL に抱いている印象というのは、 「自分の不利益を避けるために、他人の自由を制限する」なんですね。

もっとも、GNU の思想ってのは 「すべてのソフトがオープンであるべき」 という原理に基づいているので、個々のソフトに関して 「オレの作ったソフトが誰かに独占されたら、お前困るだろ?」 という主張をしてるわけじゃないんですけどね。 「社会的な不利益を避けるため、 GPL 適用に伴うペナルティは払って余りあるものだ」 という立場は十分理解できるな、うん。 でも、私自身はそれに共感できんけど。 多分、私が根本的に GNU の思想に共感できない部分ってのはここなんだと思うな。

ま、いずれにしろ、GPL 使う人は、 「利用者の自由を直接的に制限してる」 ということはきっちりと認識するべきでしょう。 ちょっときつい言い方をすれば、 そういうことを認識せずに GPL を使うことや、 そういうことを周知させずに GPL を普及させようとする行為は、 結局宗教以外の何物でもないじゃん、と私は思うわけ。

いっそ開き直って素直に宗教だと認めちゃう、っていう方法もあるぞ :D そうすると、 私の主張するような「BSD ライセンス免罪符論」はつまり「宗教的堕落」かのう。

ああもちろん、GPL が宗教だといってるわけではないので 脊髄反射せぬように>GPL 信者(←そうやって煽るのやめなさい>オレ)

Ruby

そうえば、 「ruby はライセンス緩いから、その派生物は商用でもクローズソースでも使える」 という話を聞いたことがあるけど、 普通に ruby から派生物を作るとバイナリは GPL 縛りを受けるので注意だよもん。 regex.c ね。あるいは、「もっと配布条件がよくわからんコード断片」もある。

固有生体情報

本人認証は、やっぱ固有生体情報を使いたい 、 という話で、こがさんが、 「下手に指紋にすると、本当にクリティカルなところでは指切り取られるし、 下手に瞳孔にすると、本当にクリティカルなところでは目ん玉くり貫かれる」 なんて旨の話をしてたなぁ。

NC4.75

いや 、 それはコミケのせいだけでもない気がするっす。 p のなかに blockquote が居たりするのは、HTML 的にマズい。

それはとりあえず直した。でも、 「すみませんがコミケでは CSS はオフにしてください」 なスタンスですのでご了承ください。

コプロ

コプロ 。 これ読んで思わず、 隣の席の人に「コプロがないらしい」とか脊髄反射で言ってしまったが、 家帰ってきてから、さすがにコプロがない、 なんてことはないだろうと思って調べてみたら、SunPCi II コプロセッサってのは PC/AT エミュレーションボード のことですがナ。いわゆる「浮動小数点プロセッサ」は当然 UltraSparc IIe に 入ってるでしょうな。