.スライド 。 いつのまにか OSD で壁の内側に囲い込まれた上に、 客観性という搦め手で勝手に同類と見なされるのか。 意図的に OSD の規定から外れたライセンスにしない限り逃げ場がないじゃん。 .まあ、客観性などという言葉にだまされてはいけないやね。 私は、 オープンソースの客観性 というものは全く認めない。確かに、定義により 「OSD 準拠のソフトウェア = オープンソースソフトウェア」なのかもしれないが、 しかし、 オープンソース運動というのが思想的プロパガンダであることを考えると、 機械的に「OSD 準拠のソフトウェア = オープンソースソフトウェア」 という定式を適用することは、「OSD 準拠のソフトウェア」 を勝手にオープンソースのプロパガンダに使ってることに等しい。 これが「OSD 準拠」と言うことと、 「オープンソース(ソフトウェア)」と言うことの本質的な違いだと思う。 思想的プロパガンダに利用するようなことを、 単に「定義により客観的」だから「開発者の意図とは関係ない」 と言うことが許されるべきなのだろうか。 .たとえば、「日本国民 = ほげほげ党員」という定義を考えてみよう。 かなり勝手な定義だが、確かにこの定義は客観的だ。 しかし、ほげほげ主義を信じているかどうかに関係なく、 あるいは、実害があるかどうかに関係なく、 この勝手な定義およびその客観性という大義名分によって 勝手にほげほげ党員にされたら誰だって嫌だろうし、 「日本国民はみんなほげほげ党員です。ほげほげ主義は素晴らしい!」 なんていうプロパガンダをされたら嫌だろう。 要するにそういうことだな。 「ほげほげ主義は素晴らしいから許されます!」 とかアホなことを言い出す奴が出ないことを祈る。 .まあ、百歩譲って 「OSD 準拠」のものを単に「オープンソース(ソフトウェア)」と呼ぶのが 「悪い」ことなのかどうかはともかく、少なくとも「失礼」なのは確かよね。 オープンソースという言葉の定義を勝手に別の定義で置き換えることを 「失礼」と言う のならば、 勝手にオープンソースという物を定義して、 その勝手な定義にしたがって勝手にオープンソースソフトウェアと呼ぶことの 「失礼」を認識していてもよさそうなものなのだが。 それが認識できていないあたり、独善と言われても仕方がない。 .前にも書いた通り、そもそも「オープンソース」という言葉ができる前から 「オープンソースみたいな何か」という文化があったのだけど、 「オープンソース」というのは所詮、 その旧来の「オープンソースみたいな何か」 の文化に対する乗っ取りからスタートしてるからしょうがないのかもね。 .勘違いされないように言っておくと、 私は「OSD 準拠」のソフトウェアはいっぱい書いてきましたし、 これからもいっぱい書いてゆくでしょう。 要するに上で述べたような「オープンソースみたいな何か」 を否定してるわけではないのであしからず。むしろ大好きなんですね。 だから、勝手にそれを(定義の名の下に)変質させて、 勝手にセクト化させて、勝手に囲い込み、 自分の利益のために、しかもそれが正義であるかのように、 これをプロパガンダとして使う人種がいて、 あまつさえそれと同類視されそうなのが嫌なだけ。 .ところで、OSD から外れたライセンスにしたければ、 君のお使いのライセンスに 「このソフトをオープンソース(ソフトウェア)と呼ぶ人々は実行できない」 という一行を追加すると、 たいした実害なしに OSD の 5 項に違反できる気がするがどうだろう。 まあアホらしいから私はやらないけどさ。 そういうセクト化が目的ではないし。 |
.まず軽いところから。引用 1: 議論のため、 ある定義を満たすものに名前をつけることはよくあることだ。 もちろん「オープンソースみたいな何か」という文化が以前から 存在していたのは事実だが、オープンソース以前には明確な定義もなく、 的確な名前もなかったことは塩崎さん本人がそれを 「オープンソースみたいな何か」と呼ばざるをえなかったことから 明らかではないだろうか。明確に名前がないものに名前をつけ、 範囲を確定する行為は自然な行為である。純粋に「議論のため」ならばおおむね正しいといえるでしょう。 しかし、ここで問題になるのは次の二つです。 .まず、取るに足らないほうからいけば、 「オープンソースみたいな何か」と「オープンソース」 が似て異なるものであり、議論でこの二つを混同する可能性が十分にある、 ということです。まあ、 私はそもそも「オープンソース」という言葉に厳密な定義を与えても 「議論においてあまり役に立たない」と思っているので、 この混同は、「純粋な議論」においては大した意味はないと思いますが (これは、必ずしも「純粋な議論」以外の意図において意味がないという ことは意味しませんので注意)。本筋から外れるので、 「なんで役に立たないのか」という部分の詳細は割愛。 .もう一つのほうは、単純だけど根幹にかかわる話です。 つまり、「純粋に議論のためと言えるのか?」ということです。 純粋に「議論のため」ならば、機械的に「OSD 準拠なソフトウェア」に 「オープンソース(ソフトウェア)」というラベルづけをしても良いでしょう。 しかし、わたしゃ最初から 「議論のため」の話なんてしてないのは明らかです。 したがって、「引用 1」は私の意見に対する反論にすらなっていない。 内容ではなく、メタレベルの問題。話が噛み合ってない。却下ですね。 .さて、気を取り直して次に「ほげほげ党」の話です ……気を取り直したいところですが以下略。 .引用 2: しかし、「勝手にほげほげ党員にされたら誰だって嫌」なのは、 最初の定義は「日本国民 = ほげほげ党員」でしかないはずなのに、 「党員」という単語の語感によって、 本来の「ほげほげ党員」定義に含まれない「ほげほげ主義に賛同する人」 という「別の定義」を導入しているからではないだろうか。 これでは、最初の定義は本当の定義ではないということになる。いいえ違います。 ある A という事象について、 根本的に A がなんであろうと「勝手に A にされたら誰だって嫌」なんです。 これは人格にかかわる話ですから、割と深刻なことだと思います。 A の内容によっては「まあいいかな」と思うこともあるかもしれませんが、 しかしながら一般的に言えば A にかかわらず 「勝手に A にされたら誰だって嫌」というのはごく普通の感情でしょう。 まあ、「100 人中何人そう思うのか言ってみろ」 とか言われたら答えようがないのですが、 私の感覚では「そういう人はそれなりに存在する」と思ってます。 そういう感情の存在を認識しておられないか。 それに同意しないというのならば話が通じないのだけども。 そういうことなら「ごめんなさいもう言うことはありません」となりますが。 .そうではないと仮定して話を続けますが、 まあ確かに「ほげほげ党員 = ほげほげ主義に賛同する人」 という定義を暗黙の形で入れたのは落ち度かもしれません。 まあでもこれはオッカムのかみそりですね。 そもそも最初から「s/ほげほげ党員/ほげほげ主義者/」 としても論旨が変化しません。 単に、A が主義主張と関連していることならばなおさら、 「勝手に A にされたら誰だって嫌」だと思うのが当然だということを 強調するに過ぎません。 .「日本国民はみんなほげほげ党員です。ほげほげ主義は素晴らしい!」 については、これを三段論法の文章かなんかと完全に誤解しておられる。 ほげほげ主義のプロパガンダとして勝手に日本国民を持ち出した 「レトリックの例」に過ぎない。 それを「詭弁」と言われちゃ議論が噛み合わない。 それに、「ほげほげ主義は素晴らしい!」の部分がなくて、 「日本国民はみんなほげほげ党員です」あるいは 「日本国民はみんなほげほげ主義者です」だけだったとしても、 そういうプロパガンダはやっぱり嫌であることには変わりない。 .まあ、たとえ話というのは、 読む側が重箱の隅をつつけばいくらでも埃が出てくる物なので、 あくまでも日記みたいな読み物向きなものであって、 フォーマルな議論には向いてないのは事実ですな。 そこで曲解するように埃を叩きだすのはどうかとも思いますが。 もっとフォーマルな議論向きのいいまわしで簡潔にまとめれば、
.さて、引用 1 引用 2 と、 とりたてて中身のある話になってないことにぐんにょりしてた読者諸兄に朗報。 ここからが本題です。 .引用 3 : とはいえ、私は塩崎さんが意図して詭弁を使ったとは思っていない。 予想できるのは以下のいずれかだ。あのスライドが純粋に「議論のための議論」を行う際の資料ならば、 述語にどんな定義を与えようがかまいません。 ディベートの練習のためには、天と地を逆にしたような 述語定義でエンジョイアンドエキサイティングというのも悪くない。 でも、あれはそういう目的のための資料とは違いますよね。 .確かに、まつもとさん自身は 「オープンソース運動、オープンソースソフトウェア、その他等々」 という用語についての「あるべき理想の姿」というのをお持ちなのでしょうが、 はたして世の中の現状認識はそれと一致しているのでしょうか。 そのあたりの認識や感覚にズレがあると思うんですね。 確かに、「まつもとさんの定義した述語世界 --- 長いので、ここでは仮に M ワールドと命名しよう」 においては、私の「誤解」ということになるわけです。 しかし、ここでこの文脈での「誤解」という述語の定義をきちんとしておけば、 「M ワールドにおける述語の定義を取り違えている」 というだけのことしか意味していません。 .うん、あれが「議論のための議論」を行う際の資料ならば、 その世界における定義に則ってない私の完全なる間違いでしょうね。 でも、あれは議論のための資料ではない。 「大勢の人に何かを伝えるための資料」です。 そして、私やその他大勢の人々は M ワールドで生きているのではなく、 実世界で生きているのです。少なくとも私は最初からその定義に同意してないし、 明らかに世間の認識は M ワールドに一致してはいない。 そして、私には両者がそんなに近いとすら思えない。 .繰り返すと、 実世界における人々の認識が具体的にどういうものなのかというのはともかく、 確実に言えることは M ワールドの定義とは一致していないということと、 多分言えることは M ワールドに近くもないということですね。 それを踏まえて、とりあえず一つの問題点を提示しておくと、 なぜ「OSD は客観的」と言うのではなく、あえて「オープンソースは客観的」 と言いかえる必要があるのか、というところですね。 なぜ、M ワールド以外の住人には必ずしも直感的ではない言い換えを行う 必要があるのか。 そこに理由があるとすれば、それはズレ(誤解の余地)を認識できていないか、 配慮が足りないか (まわりも見ずに「定義により同じものなんだから言い換えてもいいじゃん」 と言う発想は、あまり成熟したものとは言えない)、 あるいは(もしかしたら言ってる本人が気づいていないかもしれないし、 気づいていて知らないフリをしているのかもしれないが)何か別の意図がある、 そんなところでしょうか。 まあ、オープンソースと言いたいだけと違うんかと小一時間以下略。 .で、私の実世界についての現状認識ですが、 「オープンソースソフトウェアというのは、 オープンソース運動という考え方に賛同しそれに参加した人が書くものである」 と、(オープンソースというものに対する知識の薄い) 世間のほとんどの人が考えているんじゃないか、と思っています。 私は、この現状認識を追従する形で 「オープンソースソフトウェア」という言葉を定義し、 その上で「OSD 準拠 = オープンソースソフトウェア」 と機械的に適用することには問題がある、と指摘しているのです。 .引用 3 に関してまとめると、 まつもとさんの提示した 「誤解」および「危惧」という二択は全く的外れであって、 本当は次のような「危惧'」となります: M ワールドがどういうふうに定義されていようと、 現状の実世界の人々の認識はそれとは異なる。 世の中の人々は 「オープンソースソフトウェアというのは オープンソース運動への賛同者が書くものである」 という認識を持っていると私は考えており、 この現状認識の元においては、 安易に「OSD 準拠 = オープンソースソフトウェア」と言い換えることは、 勝手に世間から「オープンソース運動賛同者」 と見なされる人々が出る可能性があるのではないか。そして、勝手に賛同者にされることが「嫌」なことであるのは 先に述べたとおりです。 .私は必ずしも、M ワールドという理想を理想として啓蒙することを やめさせようとは思いません。それは完全に自由な思想行為だと思います。 でも、ちゃんと啓蒙されてもいないものを啓蒙されたという前提で 話をするのはよろしくないと思います。 .最後に引用 4: 私は、フリーソフトウェアと違ってオープンソースは プロパガンダであるとは思っていない。 むしろフリーソフトウェアという言葉のプロパガンダ臭を 嫌忌した人のためのオープンソースだと思っているのだが、 思想や背景がないとまでは言わない。ここでの問題点は明らかに オープンソース運動は 「(OSD準拠の)オープンソースソフトウェアを活用する運動」であって、 「(OSD準拠の)オープンソースソフトウェアの開発」のことではない。が M ワールドにおける述語の定義に過ぎないということです。 これは、これまでに述べたことがそのままあてはまるので 言うまでもないことでしょう。これが前提とならない以上は、 OSD準拠のソフトウェアを開発しているからといって、 オープンソース運動に賛同する必要も必然も存在しない。 オープンソース運動がオープンソースソフトウェアを利用しているのは 事実だが、 OSD準拠のライセンスを選んだ時点でそのような利用を許容している (or そのような利用を制限することはあきらめている)とみなされるだろう。という部分は全くの無効であると言えます。 .まつもとさんのコメントに対する私のコメントは以上です。 .私の個人的な雑感。 「オープンソース」という言葉が出てきた当初、 この言葉に対して「オープンソースみたいな何か」 を表わす精神的な言葉としての意味を期待していたんですよねぇ。 まあ、それは私の勝手な期待だったので、 今となってはどうでもいいことですが。 でも、言葉の字面の胡散臭さと、 そのライセンスの呉越同舟さ加減を考えるとその程度の使い方が妥当だと 思うんですがねぇ。 .オープンソースという言葉があまりに便利過ぎ、 そしてあまりに安易すぎ、そして胡散臭いため、 どこまで行っても世間は M ワールドの定義を 自分たちの認識とはしないでしょう。 それどころか、オープンソースという言葉が周知されればされるほど、 世の中と M ワールドからの乖離は大きくなるでしょう。 あまり理想にこだわりすぎるとまわりが不幸になりますな。 .また、DFSG のように、 最初から単なる実務上の分類目的でひとまとめにするのならばいざしらず、 そもそも主義思想が異なるものを、 その主義思想をないがしろにして客観性の名の下に一つに扱い、 それを別の何らかの意図に用いようとすることそのものに抵抗を 覚えるわけですね。 .まあ、私はそんなこととは関係なく、今日も明日も明後日も、 これからずっと OSD 準拠のライセンスでソフトウェアを書いてゆくでしょう。 しかしながら、うっかり私が宗旨替えでもして自分の書いたものを 「オープンソース」と呼ぶようなことがあれば話は別ですが、 私が書いたものを「オープンソース」と呼ぶのは 正直勘弁していただきたいと思ってる。もっとも、 一方でうっかりそう呼んじゃう人がいてもしょうがないという認識もあるし、 うん、そういうのまで糾弾するほど私は偏狭ではない。 そのへんは適当にやってくださいな。 .しかし、また下らない言葉を作ってしまったような気がするけどキニシナイ。 |
.「おばあちゃんはアイドル(1)-(4)/菊池久美子」を読んで寝た。 個々の話は面白いのだけど、 もうちょっと全体としてのリズムがほしいところ。 煮えきらないまま終わってしまった感がありますな。 ちょっともったいない。 |
.話が散逸してしまってるので、私の主張を明確にしておくと次のとおり。 .1. 論点は、 「オープンソースは客観的」という言葉の使い方が妥当かどうかにある。 私は、この言い換えが妥当だとは思っていない。 .2. まつもとさんによれば、この言葉の根拠は
.3. ここで軸となるのは、 B の「OSD 準拠(ソフトウェア)はオープンソース(ソフトウェア)と同義である」 という部分で、 これをもって「OSD 準拠(ソフトウェア)」を「オープンソース(ソフトウェア)」と 言い換えることが妥当かどうかにある。 .4. まず、「OSD 準拠ソフトウェア = オープンソースソフトウェア」 という定義(M ワールドにおける定義)は、 まだ一般に浸透していない。 俗人的には「オープンソースソフトウェアとは、 オープンソース運動に賛同した人々が書いたソフトウェアである」 という認識も存在する。 .5. 上で述べたような俗人的認識を持っている人は、 「OSD 準拠ソフトウェア」と同義であるという意図のもとに使われた 「オープンソースソフトウェア」という言葉を 発言者の意図どおりに認識することはない。 よって、不用意に 「OSD 準拠(ソフトウェア)」を「オープンソース(ソフトウェア)」 と言い換えることは、現状では誤解の余地が存在する。 .6. 「OSD 準拠(ソフトウェア)は客観的」と主張したい場面で、 あえて誤解の余地の発生する 「OSD 準拠(ソフトウェア) → オープンソース(ソフトウェア)」 という言い換えを行う妥当性がないし、誤解を生む分有害である。 よって、「オープンソースは客観的」という言葉を使うことは妥当ではない。 .うん、まあ主張の内容は単純なのよ。 「誤解されるようなことを不用意に言うな」というだけのこと。 で、なんで私がわざわざそういうことを言うかというと、 「俺に火の粉が飛ばないうちは君が何をやろうとどうでもいいけど、 頼むから俺のほうに火の粉を飛ばしてくるな」 という意識に基づいてます。つまり、 「そういう誤解によってオープンソース信奉者と同類として見られたくないから」 なんですね。 .私の感覚として全く信じられないのは、 例のスライドは、 私への「オープンソースについて語ってくれ」 との依頼に応えて作成したものだ。 当然聴衆は、私の世界観に基づいた『オープンソース』について聞くことを 期待していたと考える。 聴衆の中には「それは違う」と思う人もいるかもしれないが、 そこまでは私の責任ではない。という無責任さですな。 .根本にあるのは、 「誤解の余地」を「『それは違う』と思う人もいるかもしれない」 という「意見の違い」として処理しようとしている 想像力の欠如にあるんじゃないかと思います。 だいたい、講演というのは半ば無批判に受け入れられるものであって、 だからこそ誤解の余地は少なくしなければいけないと思います。 このスライドも、そういう配慮の下に書かれるべきだったのでしょう。 しかし、それが行われていない。 まつもとさんの言ってることは、講演スライドというものを、 学術発表のスライドと混同してるとしか思えないんですな。 .そして、 「聴衆は、私の世界観に基づいた『オープンソース』について聞くことを 期待していたと考える」というのが百歩譲ってそうだったとしても、 不用意にそのスライドを外の世界に公開する無責任さは言うまでもないことです。 .で、私として提案したいのは、 M ワールドを周知させるのは結構なことだ。 でも、M ワールドが十分に周知されてない段階で、 OSD 準拠ソフトウェアをオープンソースソフトウェアと言い換えて、 前者に対する形容をそのまま後者に適用するのは、 誤解が大きいのでやめていただきたい。ということです。まあ、できれば、 講演スライドを無責任な形のまま放置するのもやめていただきたいのですが、 どうするか(=放置するなりひっこめるなり批判へのリンクを張るなりといったこと) は良心次第ということにしておきます。 .細かい落ち穂拾い。 しかし、私の世界観のただ中に踏み込んできて、 「明らかに世間の認識は M ワールドに一致してはいない」 とまで断言されるのであれば、その十分な根拠を期待したいものだなあ。揚げ足取りに揚げ足取りで返すことになるのでアレですが、 ご自身で exact cover ではないと明言 してますね(それどころか 2% 以下しかいない……まあ統計の罠です)。 言葉で根拠を示すまでもなく、 話者間でこの点については異存がないということでしょう。 うん、ここに関してはそういう言葉を選んだし。 .世間一般のオープンソース 。 まあ、「世間」という言葉を不用意に使ったのは私の責任だけど、 こういう統計の罠を突くような話に大した意味はないですね。 「コップの中の嵐」という喩えは、「客観性」とか 「オープンソース」という言葉と同じくらい、 非常にうまい、そして蜜のように甘い表現なので騙されやすいのです。 まあ、比喩というのは無意味に心に響きやすいので、 こちらも理屈で応酬するのはやめて、「人は常にコップの中で生きている」 という別の表現を持ち出しましょうかね。このコップは大きさが変化するのです。 そして私はそのコップから 1 光年も離れているような人の話なんてのはしてない。 ただそれだけのことです。 .以下雑感。 .まつもとさん以外の人の話を読むと、 どうも話に混同があるような気がするんだけど、 私は M ワールドが正統/正当かどうかなんて話はしてないし、 それが正統/正当であるかどうかとか、 それが私にとって受け入れられるものであるかどうかとか、 そんなことに全く興味はないし関係もない。 .でも、あえて誤解の余地の発生する 「OSD 準拠(ソフトウェア) → オープンソース(ソフトウェア)」 という言い換えを行うのは、 半ばその誤解を利用してでもなりふりかまわずに 「オープンソース」という言葉を聴衆の脳に刷り込みたいという (ひょっとすると無自覚な)意識が根底にあるとしか思えないんですよ。 で、それを正当化するために M ワールドみたいな定義を持ち出してるように見える。 まあこれは単なる言いがかりかもしれませんが。 .しかしながら、周囲にそういう風に見せてる時点で やりかたが下手なんじゃないかなぁ。 少なくとも、(M ワールドの述語の意味での)オープンソースソフトウェア生産者の 一人である私が、 かたくなにオープンソースというものへの反感を強めているのは事実だし、 私の周囲の人の(ローカルでの)反応を見てると、 私の意見への共感を持ってる人も散見されるわけでして。 まあ、感情的にすっきりしない理屈をこねくり回しても、 洗脳以外の方法では人の心には響かないということですな。 .ま、世の中というのは結局は「雰囲気」で動いてるし、 放っておくと「同類とみなされる雰囲気」ができあがってしまうので、 ことあるごとに「同類として見るな」と明言しておくことそれ自体にも それなりに意味があるわな。誤解の余地がある 「OSD 準拠(ソフトウェア) → オープンソース(ソフトウェア)」 という言い換えを不用意に行う輩がそれを改めないうちは、 「(M ワールドの述語の意味での)オープンソースソフトウェア生産者は、 必ずしもみんなオープンソース運動の賛同者ではない」 というのは、強調しておいてし過ぎることはない。 なんでここで言葉の送り手でも受け手でもない 第三者が誤解の尻ぬぐいせにゃならんのか疑問だが、 送り手が誤解の責任を負うことを放棄してるからしょうがない。 まあ世の中というのはそういうものだ。 |
.私のインチキ臭い雑学知識によれば、 人間の音程の知覚というのは、 蝸牛という渦巻状の器官の中で音波を共鳴させて、 渦巻のどこに共鳴点があるのかを感知することによって 行われているらしいので、この蝸牛の中の液体の音速が薬によって変化すると 音程の知覚も変化するのかなぁ、とか思います。 |
.ぶわははははh 、 M ワールドはやっぱり単なる M ワールドでした。糸冬了。 janus さんがすでに気づいておられたか 。 ::Conformance to the OSD::.もっと早くこれを発見できていれば、無駄な文章を積み重ねずに済んだな。 .海の向こうの連中は、 とうの昔にこういう摩擦が起こる可能性に気づいてたということか。 あるいは、すでに同様の摩擦が発生していたのかもしれない。 そこで、強弁を繰り返して摩擦の拡大再生産を行うという選択をせず、 「あくまでも推奨である」と述べるのは洗練された姿勢だなうん。 .まあ、「言葉を考えた本家の定義だから歴史的正統性がある」 というような主張をするのならば、 せめてその本家の意向と足並みを揃えた主張をしてくださいな。 |
.なんかやっぱり根本的なところで話が通じてないなぁ 。 「たとえ」は的外れな上に冗談としても全く面白みがないし。 (悪意すら感じるが、まあ言葉尻に悪意がプンプンしてる言葉でも 「例の内容に深い意図はありません」 と言っておけば済むと天然で思ってるようなので、 そこは放っておきましょう<放っておいてないやん ) .まあ、それは置いといて、これ以上は平行線だと思うので、 ここらへんで私のまとめを。 .うん、最初から最後までまつもとさんの論旨には大した矛盾はないですね。 歴史的にどうか、という話に私は多少は疑問がなくもないのだけど、 まあ枝葉の話です。 .しかしながら、だいたいの自由行動というものは、 大して難しくもなく論理的に整合性の取れた正当化は行えるものです。 たとえば、私が「オープンソースソフトウェアという 言葉はオープンソース運動に賛同した人の書いたソフトウェアのことだよ」 という定義を普及させようと考えた場合に、 これに正当な論理を付けることは容易です。 でも、私は「それが論理的に正しいから」という理由で、 こういう定義を普及させようとはしない。 そういうことの歯止めになっているのは、論理ではなくて感覚。 .「現実の私」にとっては、「オープンソースソフトウェアという 言葉はオープンソース運動に賛同した人の書いたソフトウェアのことだよ」 という定義が正しいか正しくないかはどうでもいいのだが、 でも本気でこれが正しいと考えてる人もいるかもしれない。 あるいは、無批判に信じてる人がいるかもしれない。 これらの内面的な行為は自由です。 これを外面的な行動に移したとしても、やっぱり自由です。 それはきっと、論理では崩せない。 .で、こういうのを崩すためには、相手の良心に訴えて説得するしかないのです。 そう、「失礼だ」と言うとか。 (昨日書き忘れたけど、定義者の 「意向(オープンソースという言葉は無保証)」を無視するのも、 定義者に対して十分失礼だと思います ) .まあ、私はそういうところを批判するつもりはないんです。 実際、私もこの方法に倣って「無責任だ」と言ってるわけですし。 それが強制力を持たないのはいうまでもありません。 ただ単に、それが相手の良心に通じるかどうか、というだけの話。 で、私の言った言葉は通じなかった。 まあ、私にとってはその点においては残念な結果だったな、と。 ただそれだけのことです。 .一方で、ある種の「雰囲気」を作ることができたことには、 一定の効果があったかなぁとも思うけど。 .誤解されないようにいっておきますが、私は論理を否定してるんじゃないのです。 「論理で考える能力がなくて感覚で動く」ことを推奨してるわけではない (むしろ、そういう手合いが私は一番嫌いだ)。 でも一方で、「感覚を捨てて論理で 100 手先まで詰めて動く」 ような硬直した態度に対してもどうかと思うわけです。 まあ、そこはバランスですね。 |
.それにしても、世の中には、 「ちょっとは立ち止まって(頭で考えるのではなく) 自分の胸に手をあててみたほうがいいんじゃないかなあ」 と思う人はいっぱいいますね。もっとも、それ以上に 「その頭は何のためについてるんだお前わ」って奴のほうが多いけど。 |
.そういえば、オープンソースという言葉が流行りはじめた頃、 (う)の人だったか誰かが「あれはオープンソースじゃなくてオープンドレーン」 とか言ってた気がするが、「利用者の立場」なら言い得て妙。 .よく、オープンソースをビジネスで展開するうえのメリットで 「無料」を最初に挙げようとすると反発する人がいるけど、 個人的には、やっぱりまず最初に「無料」というメリットがあって、 ただ、その「無料」であることを生かすのに OSD に適合したライセンスであると都合が良い、という話だと思うなぁ。 そういう意味では、FSF の思想を無視して GPL で統一してしまったほうが、この立場では効率が良い。 また、開発者の立場でも、理想論として 「現実的には難しいけど GPL で統一されればそれはそれで幸せかもしれない」 と言う人もいるし、私もそれはそれで事実かもしれないなぁ、と思うこともある。 私が理想主義者ではないだけで。 「オープンソースを信奉してる人」の中には、 GPL 以外を劣等とする意見を言う人がいるけど、 そういう意味ではそんなに間違ってもいないのかもしれない。 .まあ、単なるオブラートよね、オープンソースって。 「感情を消す」んじゃなくて、「そこに実際にある感情を無視する」に過ぎない。 オブラートというのは、苦い薬は飲めるようになるけど、 毒を飲んで平気になるというわけではない。 本質を見ようよ、なるほど君。 .「GPL 一柱だけで直接触ると祟りがあるから合祀したんだよ」という説もあり。 巻き込むなよ :D .おととい書いた、「OSD を厳密に解釈しても大して意味がない」 ということの理由の半分は 今野さんが指摘しているのでリンク 。 客観性すら怪しい。 もう半分は、結局は「ライセンスを合祀するなよ」というところかな、まぁ。 |
.うひひひ 。 ある意味で M ワールドよりずっと急進的で思想的かほりがプンプンするし、 あるいはその内容に賛同するかどうかは別としても、 この人はちゃんと話の本質がどこにあるのか分かってるよね。 当事者意識を抜きにしたヤジ馬的見地からいえば、 よっぽどこういう話のほうが、下らない論理的正当化よりも好きだなぁ。 なんでかというと、「面白いから」。 .まあ長期的に見れば、局地的な論理的整合性よりも、 「面白い」とか「好き」とか、そういう感情に頼ったほうが、 よっぽどみんなが幸せに長く暮らせるんじゃないかなあと思う。 全然体系的でも論理的でもないけど。 「オープンソース」という言葉を初めてみたときは、 「ウホッ、面白い言葉」とか思ったもんだ。その後で落胆したけど。 .変な理屈をこねると、裏にあるものを透かして見通されるだけで逆効果。 一方で、私は非合理的思想のラジカルになるつもりもないから、 真剣に考えだすと悩ましいんだけども。 あまり真剣に考えないというのも重要なのかもしれず。 .一方で、シュッシュッの方はなんというかセコい。 言いたいことがあるなら人のサイトの看板に頼って 奥歯に物の挟まったような言い方をせずに、 自分の看板ではっきりと言えばいいのにと思う。 まあそれはそれで賢いんだけど。でも、全然面白くなーい(←だだっこ)。 |
.NetBSD の devsw インターフェースの問題の一つに 「単一のデバイス番号に対して一つのプロセスから複数の open を実行すると、 その後のオペレーションでこの複数のデスクリプタを区別する方法がない」 というのがある。 .FreeBSD はどうやってるか見てみたら、 dev_t が整数型ではなくて構造体のポインタになっており、 そこに closure が持てるようになってる。 同じ dev_t っていう型をユーザランドと 別の意味で使っていてちょっとだけ気持ち悪い。 .まあ NetBSD も同じような方法にするのかなぁ。あるいは、 いままでの dev_open_* マクロに対応する dev_open_*_ex マクロと、 struct ?devsw に対応する struct ?devsw_ex 、そして 各オープンごとの拡張情報を格納するための struct dev_ex を用意して、 static int fooopen(dev_t, int, int, struct proc *, struct dev_ex *); static int fooclose(dev_t, int, int, struct proc *, struct dev_ex *); ...みたいにすると、コードの変更が最小で済んでいいかもしれない。 |
.NetBSD 界隈でたまにお見かけする Yuji Yamano さんから こういう情報 。 私の ASF License 2.0 の読み方が間違ってなければ、 パテントライセンスの要求事項は配布とは関係ないのだが、 いかに配布とは関係ない要求事項であっても 追加したら GPL と矛盾すると。そういうことなんでしょうな。 .まあ、パテントライセンスだけ別にするのがいいんじゃないのかのう。 つまり、ASF の作ったソフトウェアを使うときに、 使うのに必要な特許のうち ASF がライセンス権を持っているについては、 個々の特許について別文書のパテントライセンスによってその使用権を受ける、 という形にすれば解決するような気がする。 .ASF が権利を持つ特許に関しては、利用者は何らかの形でそれに対する 利用許可を受けないと基本的に使えないのだが、 それをソフトウェアのライセンスに含めるの現在の ASFL 2.0 の形態は、 まあお手軽というのはあるのかもしれないけど、 ちょっと手を抜きすぎてるような気もする。 たとえ現在の ASFL 2.0 の形態であっても、 実務上の理由から結局はそのソフトウェアがどういう 特許を含んでいるのかというリストを必要とするはずなので、 ASFL 2.0 からパテントライセンスを追い出したとしても、 そのリストからパテントライセンスへの機械的な紐を付けることは それほど難しくないと思う。 そして、個々の特許に対する利用条件については、 それをソフトウェアのライセンスとリンクしない限りは GPL の側はそれを関知しないから矛盾もしないと。 .しかし、ASFL 2.0 が GPL と矛盾するとなると、 巧妙に考えたつもりだった 「 このソフトをオープンソース(ソフトウェア)と呼ぶ人々は実行できない」 という条文には、「GPL と矛盾する」というデメリットが生じてしまうなぁ。 混ぜるな危険。 |