某日記

(後期)

平成16年6月21日(月曜日)

昨日

寝入りに「Happy World(7) / 竹下 堅次朗」を読んだ。 そういえば不幸体質なんて設定だったのをすっかり忘れていた。 画廊喫茶はぴど

で、「MAR(6) / 安西 信行」を 2 ページ読んで落ちた。 ドロシーお姉さま萌え。

今日

ドトールでマターリ。

家に戻って積ん読消費。

MAR(6) / 安西 信行」ドロシーお姉さま萌え。

REC(2) / 花見沢 Q太郎」今回も帯の下には騙された。 「花見沢Q太郎」公式HP

それいけ!ぼくらの団長ちゃん(6) / 小野寺 浩二」 完結。

天才料理少年味の助(3) / 宗田 豪」 エロ料理漫画としてふっ切れた感じが。

School Rumble(5) / 小林 尽」 初代三匹は確かに最高だ。

たたかえ!ハニー / おおいま 奏都」 ところで、最近の少女漫画は目が小さくなりつつあるのだけど、 これって何の影響なのかな。 ワキヤクテンゴク

桑田乃梨子作品集ラッキー!! / 桑田 乃梨子」イイネ。

そういえば花ゆめコミックスも積んでたのを忘れてた。

平成16年6月22日(火曜日)

そういえば

沖縄に出発する朝に 「天使のドッペルゲンガー / 天原 ふおん」 を読んでたのを忘れてた。いつものようにヌルい話ではあるが、だがそれがいい。

昨日

金色のガッシュ!!(16) / 雷句 誠」 「HELP!! / 藤原 規代」 「KING MARKER ― 王の採点係(1) / 喜多 尚江」 を読んで寝た。

熱い熱すぎるぞガッシュ。 この手の熱い少年漫画は元来ジャンプの十八番だったはずなのだが、 今のジャンプにはこれだけの熱さを持った漫画は存在しないし、 そして産み出せないだろうな。

HELP!! は医者のタマゴ物。ヌルいけど好き。

KING MARKER はいつもの喜多尚江ファンタジー。 楽描きの家

平成16年6月23日(水曜日)

昨日

君の瞳に三日月(1) / 桑田 乃梨子」を読んで寝た。

今日

ハツカレスペシャルコーナー。 flash で音が出るので注意。

夕方

Amazon の Web サービスで遊んでみる。

しかし XSLT も XPath も、「パワフルだけど使えない」言語やな。 sendmail.cf で懲りたことはないのか。 こんなもんを仕事で使わにゃならん人々は気の毒だ。

つーわけでこんなのquery した例。 \asin[]{} ってのは、 私の日記システムでの個別商品リンク用タグ。 たとえば、豪放ライラックにリンクしたければ、上の query 結果から

\asin[4847034724]{豪放ライラック(1) / 桑田 乃梨子}
というのをマウスで選択して、エディタに張りつけて、 キャプションを適当に調整するだけになった。 いままでは、amazon の普通の検索結果からいちいち ASIN と タイトルと著者名を切り貼りしてたので、だいぶ楽になったと言えよう。

エレコムが懲りた話

「エレコムの逆ギレ」というレッテルを貼って、 GPL の問題から目を背けてもなんの意味もないと思うぞ。 結局、GPL に明快さも厳密さもないのが問題なんじゃないかな。 少なくとも、安易に使うくらいなら使わないほうがよっぽどマシだと思うし、 その点において「使わない」と宣言したエレコムはそれはそれで正しい。

GPL が明快でないということに対して、 おせっかいな人が世の中に貢献できる方法は次の 3 つだと思う:

  1. GPL を明快な形に直す
  2. GPL がちゃんと理解されるよう啓蒙する
  3. GPL を使わないよう啓蒙する
私は、この 3 つは同程度の「素晴らしさ」を持つおせっかいだと思うのだが、 なぜか 3 だけが叩かれる。不思議ですねぇ。 GPL の恩恵を諦めれば一番コストが低いのが 3 なのですけれども。 GPL から恩恵だけを得て、問題点は「見ないように見ないように」 と目を背けてる輩が多すぎるように感じる。

まあ、それ以前に「ライセンスは守るべき物である」 ということをちゃんと啓蒙せんといかんという話ではあるのだが。 しかしながら、理想を言えばそうなんだけど、 私は刹那主義者なので「んな面倒くさいことをしないで、 ほっときゃ誰でも守れるライセンスにしちまえばええやん」 とか思ってしまうクチだったりする。

結局は修正 BSD ライセンスでええやん、ということになるわけです。 FSF にとっても、コピーレフトというのは結局は単なる手段であって、 彼らが真に実現したいのは「フリーソフトウェアが氾濫する世の中」 だったはずだわな。彼らはそのための手っ取り早い手段として、 「非フリーソフトウェア」なものを排斥する傾向があるコピーレフトを 用いているに過ぎない。 しかしながら、「フリーソフトウェアが氾濫する世の中」 の考え方を実現するだけなら、BSD ライセンスみたいな直接配布条件が もっと緩いライセンスでもそれほど困らんと思うよ。

今は割と「フリーソフトウェアが氾濫する世の中」になってると思うけど、 これは GPL の功績というよりは、GNU tools や Linux の功績だと思う。 GNU tools や Linux がもし仮に BSD ライセンスだったとしても、 これらは今と同じくらい普及してたと思うし、 この仮定のもとで GNU tools や Linux が今と同じくらい普及していたとすれば、 GPL が存在してなくても今と同程度には 「フリーソフトウェアが氾濫する世の中」になっていたはずだと思う。 まあ結局は、キラーソフトが重要だったということであって、 ライセンスの違いなんてものは本質的には些細なことだと思う。 それなら、使いにくいライセンスよりは 使いやすいライセンスのほうがいいと思うんだけどなあ。

どうも誤解する人がいそうだからあらかじめ補足をしておくと、 「GPL を使わないよう啓蒙する」ということについて、 これを「GPL なソフトウェアを使わないよう啓蒙する」と誤解しないように。 この意味において、エレコムの「使わない」宣言とは全くレベルの 違う話をしているということなので注意しましょう。

平成16年6月24日(木曜日)

昨日

君の瞳に三日月 (2) / 桑田 乃梨子」を読んで寝た。

そういえば

流行り言葉を使わせてもらえば、GPL って「バッドノウハウの温床」だよな。 条項の関連が複雑だから、「何ができて何ができないのか」は ちょっと GPL を読んだだけでは判然としない。したがって、 GPL FAQ のような形に咀嚼されたノウハウがなければ、バンピーには使えない。

ちなみに、私は「バッドノウハウ」という言葉は 微妙にナンセンスだと思ってるけど。 そもそも「ノウハウ」自体が「ナリッジ」の中の劣等分子なんだから、 それに「バッド」を付けても強調にしかならん。

まあ、もはや世の中が「ノウハウ」という言葉に あまり悪印象を持ってないような気もするし、 「ノウハウの温床」だと褒めたいんだか貶したいんだか よくわからんのは確かだが。

どうですかねぇ 。 まあ「BSD ライセンスなんて劣等だ」とか言い出しそうな気はするけど。 でも、GPL だって、必ずしも rms の望むようなことになるとは 限らんのだけどなぁ。

私は、GPL の最大の功績はその歴史的役割だと思う。 つまり、おっぱいはともかくとして(それはそれで重要だけど) 「一つの選択肢としてGPLが選べる状況を作り出したのがGPLの一番の功績」 というのはまさにそのとおりだと思います。さらに言うならば、 「フリーソフトウェア」という選択肢を選べる社会的状況を作り出した 功績というべきか。GPL くらい過激なプロパガンダ性のあるライセンスのほうが、 確かに BSD ライセンスみたいな放任主義なライセンスよりプレゼンテーション としてのインパクトがあったのは確かだろうなぁ。まあ、 どっちかといえばやっぱりキラーソフトウェアの存在が大きかったとは思うけど、 その一方で、GNU tools の原動力の一端に GPL があったのは確かだとは思う。

でも……これだけフリーソフトウェアが氾濫するようになったんだから、 GPL はそろそろ歴史的役割を終えてもいいんじゃないんですかねぇ。

GPL 以外の、BSD ライセンスを初めとしたフリーソフトウェアな ライセンスの多くは、非フリーソフトウェアとも相性がいい。 rms がどう思ってるか知らんけど、 実用上は「すべてをフリーソフトウェアにする」必要なんてのはあまりなくて、 「人々がそれを選択肢の一つにできる程度にフリーソフトウェアがある」 という状況で十分なんじゃないかと思うのです。

ところが、GPL が内包する非フリーソフトウェアへの攻撃性は、 非フリーソフトウェアとのコラボレーションの可能性を 制限してしまう。確かに、「共存」はできるかもしれないけど、 それは多くの場合、全く独立した二つの系が並立するような状態になる。 せいぜいパイプでつなげられるくらい。コラボレーションとはほど遠い。 特に Windows みたいな密なコンポーネントモデルの上に構成されたシステムで、 GPL なソフトをコラボレーションの一部としようとしても、 GPL を厳密に解釈する限りそれはなかなか不自由なことだと思う。 やっぱり使いにくいのよ。

今みたいに、フリーソフトウェアと非フリーソフトウェアが 適度に共存してる状況では、 むしろ GPL でないフリーソフトウェアライセンスを積極的に採用したほうが、 フリーソフトウェアの世界にとっていろいろ得なんじゃないか、 と私は思います。まあ、 非フリーソフトウェアの方への牽制というか重しというか、 そういう役割のために多少 GPL なものを残しておくことには 意味があると思うけど。

1 円よりはスマート 。 「体のいいダンピング」として悪用されないよう祈るしかないですな。

夕方

栞は荻上でした。

平成16年6月26日(土曜日)

おととい

だめっこどうぶつ(1) / 桑田 乃梨子」を読んで寝た。 巻末まんがの潤野くんの可愛さにホロリと来た。

昨日

機工魔術士-enchanter(5) / 河内 和泉」 を読んで寝た(これ書いてる時点ではリンク先なし)。 巻頭カラー絵で吹いた。ぱんつはいてない。マナちゃんええな。 あと、「NAGI / 花見沢 Q太郎」を読んだ。 微妙に設定が未消化だったかもねん。 もうちょっとスパンの長い話だったらもっと面白くなってたかも。

今日

寿司→午。

道端で見かけた巫女装束な舞人募集ポスター。 「なぜ小学 1 年 〜 4 年生なのか」という問いに対して、 「そりゃ、ほぼ確実に処女だからじゃないか?」と返す俺。

でも、これだと「なんで 4 年生は良くて 5 年生では駄目なのか」 という疑問にあまりすっきりと答えられないな。 どんなに世の中の性事情が低年齢化しているとはいえ、 さすがに 5 年生でもほぼ確実に処女だろう。 もう少し考えてみる必要がありそうだ。

で、よくよく考えてみると、 むしろ「ほぼ確実に初潮前だから」という理由が考えられる。 神道は血を汚らわしいものとしているし、 これならば数値的にもしっくりくるような気がする。

まあどうでもいいけど。ちなみに宗教的考察であって他意はないのであしからず。

平成16年6月28日(月曜日)

昨日

蛇神さまといっしょ(1) / 桑田 乃梨子」 「蛇神さまといっしょ(2) / 桑田 乃梨子」 を読んで寝た。

今日

人はなぜエセ科学に騙されるのか(上) / カール セーガン」 「人はなぜエセ科学に騙されるのか(下) / カール セーガン」 を読了。カールセーガンの「遺書」にふさわしい。青木 薫の訳もよい。

やっぱり世の中に足りないのは科学的思考能力だわな。 これは言論の自由とも絡む話だけれども、 カールセーガンは、民主主義がうまく行くためのエラー訂正機能として 科学的猜疑心を挙げてるし、私もそれはもっともなことだと思う。

少し前に「批評は良くない」とか書いてるカウンセラーか何かがいたけど、 そりゃ疑わないで済むなら幸せだよな。 でもそれは「馬か鹿にでもなれ」と言ってるのと大差ない。 まあ必要もないのに猜疑心を発揮してもしょうがないのかもしれないけど、 しかしながらあまりにも世の中はアレだな。

IPA ネタ

今年の税金無駄づかい一覧その 1 。 今年は二回にわけて無駄づかいをするらしいぞ。

非常に短い期間であるが,少額なので,賭けの意味で採択した 」ワラタ。

フリーソフトウェア再考

ということをしているわけです。

フリーソフトウェアに関して一番まとまっているのは GNU のページなので いろいろ見て回ってるわけですが、 このページ が日本語訳されてないのは何でかなー何でかなー。

平成16年6月29日(火曜日)

昨日

がーん

豪放ライラック(1) / 桑田 乃梨子」を読んで寝た。

仕事量

ふむ 。 それぞれ 1 日で終わる仕事 A と B に対して、 それぞれ順番に専念すれば合計 2 日で終わるけれども、 それぞれに専念せずに一時間おきに交互に A と B の作業を行ったとすると、 決して 2 日では終わらない。 このようにして、脳のタスクスイッチは比較的コストが高いことが観測される。

もっとも、仕事の敵は主に電話だな。 電話(の少なくとも直接的な通話)は非同期なリアルタイムイベントなので、 最高の優先度で一定時間内に応答することが要求される。 応答性能を確保するためには定常タスクのコンテキストを捨てなければ ならないことがままあるので、 定常タスクに復帰したときにコストの高いリスタート処理が 必要になることがある。

これを防ぐためには、専用の人間を用意しておいて、 その人間が電話の内容に優先順位を付けて、 タスクを後でスケジュール可能な形でキューイングするなどの対策が取れる。 しかしながら、これは人件費がかかる。

専用の人間が用意できない場合について考えてみる。 普通は、電話応答は全く関係ない仕事をしている人(主に下っ端)が 取ってそれを常に別の人(主に偉い人)にフォワードするという構造がある。 これは、全然関係ない人の時間を奪う。 したがって、最初から「電話で呼ばれる可能性がもっとも高い人(主に偉い人)」 が電話番をすればいいんじゃないかという考え方もできる。 しかしながら、このような人間は仕事の単価も高いので、 来た電話がこの人宛てでなかったときのオーバーヘッドが 大きいという問題がある。

別の方法としては、電話で呼ばれる頻度が高い人は それぞれ専用の電話番号を持つという方法も考えられる。

こういうような方法は、「今まで通りの人(主に下っ端)が取る」 という方法と比較して経済的かどうかの判断は難しいが、 もしかしたら定量的な考察を行ってみる価値はあるのかもしれない。

これらの話はある程度 OS と割り込みハードウェアの関係に置き換え可能。

ノート

デザイン優先にするとろくな物ができない例 。 筐体以外の部品はいいのになぁ。

平成16年6月30日(水曜日)

昨日

ちょこっとSister(2) / 雑破 業/竹内 桜」 「一陽来福 / 桑田 乃梨子」を読んで寝た。

今日

N+I。

巫女:

タコとウンコと蹴りたい背中

ごうちゃ のとこから これ 。 タコを育てて、ブタを木に登らせる話 --- つまり初心者教育と人心掌握の重要性に論点があるにしては文章が 脱線しすぎなので、それはきっと単なるお題目であって この人の主張したい論点は別のところにあるのだろう。 そうなると論点がどこにあるのかちょっとわかりにくいが、 しかしながら、この文章で援用されてる逸話が だいたい岩波文庫に書いてあるということと、 あまたある「武士道」の版の中から あえて岩波文庫版のを薦めてることを鑑みるに、 真の結論は「岩波文庫を読もう」ってことですかね。大きなお世話だ。 ……読解力のない馬鹿でごめんなさい。

タコに関してはごうちゃの言うとおりで、 私は次の二つのことを指摘しておきます: (1)タコという言葉は UNIX 文化の中の部分集合である日本の UNIX 文化のさらに部分集合である日本の Linux 文化において 90 年代後半に産み出された用語なので、 「昔からUNIXコミュニティで使われていた」という言い方は決して間違いとは 言い切れないものの語弊がある(←記憶違いをしていたけれども、 もう少し前らしい。 いずれにしろ日本の Linux の世界でしか通用してなかった)。 (2)「タコを大切にする」「タコを育てる」というような言い回しはもともと、 「タコ」という悪意のこもった言葉によって コミュニティの空気が悪くなるのを防ぐための方便です。 「タコ」自体の原意(つまり最初に初心者をタコ呼ばわりした人間の意図)は 「厨房」と決して変わることはないでしょう。 もっとも、敬称/愛称と蔑称の交換は容易に起こるものであるのも事実ですが。

で、 「ウンコマニュアルでも読んでろ馬鹿(RTFM)」とか 「馬鹿に馬鹿といって何が悪いこの馬鹿(MOHTA)」とか、 そういうのも UNIX 文化の一面であったし(もちろん悪しき文化だと思うけど)、 あるいは「弟子は師匠の背中を見て育つ」という徒弟制も UNIX 文化の一面だった。 いずれにしろ、 私よりも古い世代はこういう状況のほうがポピュラーだったと思う。

根本的には「よく知りもしない UNIX 文化なんてものを援用して ネットワークコミュニケーションを語ろうとしてる」 のが間違いじゃないのかな。 あるいは、私が「タコを育てて、ブタを木に登らせる話」 についてもっともらしい主張をすると、同様の結論に至るまでに きっと 1 ページにも満たない話にしかならないと思うし。 ひけらかすような教養がなくてごめんなさい。

ちなみに、岩波文庫ではないのが残念ですが、プラトンうんぬんに関しては 「市場の倫理 統治の倫理 / ジェイン ジェイコブズ」 を読んだほうが面白いよ。