某日記

(前期)

平成16年7月1日(木曜日)

昨日

真夜中猫王子(1) / 桑田 乃梨子」を読んで寝た。

今日

起きたがねもい。

バスが故障して止まってたのでタクシーに乗ろうとしたら、 やっぱり急いでたと見える人が相乗りを提案してきたので半額で済んだ。 関東人は見栄っぱりなので、見ず知らずの人とはほとんど相乗りはしないけど、 関西だと割と普通だった気もする。最近は知らんけど。

ふんどしランキング(職場注意)

夜中

テニス鑑賞。シャラポワすげー。堪能しました(nobr とか)。

平成16年7月2日(金曜日)

昨日

真夜中猫王子(2) / 桑田 乃梨子」 を読んでる途中で寝落ち。

顧客が望んでる物は「全て」である。必要かどうかは別として

Sun も大変だな 。 ムキになって 「顧客は互換性を求めている。彼らのだれひとり、 オープンソース化を望んでいない。単にメディアが騒いでいるだけ」 なんて言わなきゃいいものを。 たとえば、こう言うべきだ: 「我々は、顧客にとって本当に必要なものは互換性だと確信している。 確かにオープンソース化を望む顧客も存在するが、多くはない。 メディアはそれを誇大に伝える傾向がある」 これが真実かどうかは知らん。

Java に関しては、少なくとも Sun の今のやりかたに問題があるという意見を いろんな人から聞くので、何らかの改善は必要なんだろうけど、 必ずしもその解が OSD 準拠ライセンスの採用とは限らんわな。 Sun はいわゆるオープンシステムの先駆者で、 仕様のオープン化には昔から積極的だったし、 その流れでソースの管理についても、フリーなソフトウェアと フリーでないソフトウェアの間の現実的な折り合いを付けてきた 会社だということを忘れちゃならん。 オープンソース信者とは折り合いの付け方が違うだけだわな。

我々はそれこそ、オープンソースなんて言葉がなかった 80 年代後半から、 Sun の公開したフリーなソースによる多くの恩恵を得てる。 そういう物質的な部分以外にも、 「オープンシステム」がフリーソフトウェアにもたらした精神的な 貢献も決して少なくないのにね。 そういうような Sun の立場を考えれば、Sun の Java に対する姿勢がオープンソース信者から攻撃されてるのは皮肉なことだな。 いつからオープンソース信者はかようなまでに傲慢になったのか。 ……って、最初からか。 先に引用したマクニーリー氏の発言の行間から滲みでる苛立ちにも同情できよう。

もちろん、どっちの折り合いの付け方のほうがいいのか、 ということについては状況しだいで変化することなのでなんとも言えないけど。

悪と決めつけたら何でも悪に見えてくるよね

まあそういう背景をちゃんと考えないと、 こういう結論に至ってしまう。 少なくとも、「オープン」と「オープンソース」は同義ではないし、 したがって「オープンがもたらすもの」は「オープンソースがもたらす自由の形」 とも同義ではない。勝手に別のものを期待して文句言ってもねぇ。

もちろん、あえて「オープンコミュニティ」という言葉を使うのは、 「オープンソース」という言葉の流行を少なからず意識してるのは 確かだろうけど。それは「オープンソース」という言葉の宿命だな。 いくら「オープンソースとは『オープンなソース』ではない」と主張しようとも、 「オープンソース」という言葉は明らかに「オープン」という言葉の語感を 狙って周到に作られた言葉としか思えないし、 実際その狙いどおりに大きな恩恵を得ているので、 「オープンコミュニティ」という言葉が暗に「オープンソース」 を意識していてもお互い様といえよう。

それが嫌なら「オーポンソース」とでも改名するのが賢明ですな。 もともとあった「オープンシステム」という言葉と紛らわしいし。 それに追従して Sun が「オーポンコミュニティの盟主」とか言い始めたら Sun を糾弾しても誰も文句はいうまい。 私は糾弾する代わりに褒めてあげるけど。 「ぎゃはは、こんな恥ずかしい二つ名を自称するとは……ププププ」と。 コメディアンには笑いが最高の賞賛だろう。

冗談はおいといて。

しかしながら、Sun が「オープンコミュニティの盟主」とか言うときにはいつも、 その視線の先にあるのは決して「オープンソース」ではなく、 お決まりの「ビルジョイと Sun を始めてうんぬん」 というオープンシステム全盛期の 「古きよき Sun」を見つめているような気がするので、 それなりに良心的な気はするけど。 要するに「オープンな解はオープンソースだけではない」 と言いたいんじゃないのかな。

平成16年7月4日(日曜日)

一昨日

太田昌孝太昌園で焼肉。しらいさんと面と向かうのはもう何年かぶりだな。

ぽすたるWORK / 依澄 れい」を読んで寝た。

昨日

某所サーバの RTC 死亡問題について緊急会議 with ビール。

帰ってきて「メトロイドゼロミッション」を一気にクリア。 実質的に今日一日でクリアしてしまって、ちょっともったいない。 「メトロイドフュージョン」 では使えなくなってた爆弾昇りが復活してる。 もう「Metroid Prime:Hunters DS(仮称) for Nintendo DS」 のデータ入ってるんだね。

「So What? / わかつき めぐみ」全巻読んで寝た。 (1)(2)(3)(4)(5)(6)

今日

ドトールでマターリ。

はだかーーーー :D~~~~~~

ちゃお DX 7/15(木)

へぇ 、 まんがくらぶオリジナルに描いてたのか。

firefox の日本語化パッケージを入れてみた。 これ 落として こうした

OpenOffice のビルドが終わらない。

平成16年7月5日(月曜日)

昨日

極東天国!(1) / 巣田 祐里子」 「極東天国!(2) / 巣田 祐里子」を読んで寝た。

今日

起きてもまだ OpenOffice のコンパイルが終わってなかった……ので、 ^C で止めて shutdown 。

分担の理論

キャンプに行くことを考えてみよう。

キャンプではいろんな作業が発生するのでみんなで役割を分担しなきゃいけない。 テントの組み立て。楽しいですね。かまどの構築。楽しいですね。 料理づくり。楽しいですね。

……さて、カレーかなんかを腹一杯食ってみんな眠くなってきたところです。 みんなすぐに眠りたいところですが、まだ食器などの後片づけが残ってる。 テントの組み立てもかまどの構築も料理づくりも喜んでやってた連中ですが、 こればかりは喜んでやろうとする人がいない。

こういうふうに、ある人がやりたがる作業は他の人もやりたがるし、 ある人がやりたがらない作業は他の人もやりたがらないという傾向がある。 これはキャンプに限らないのはいうまでもなくて、 たとえばもはや死語になった 3K という言葉なんかはこれを如実に表してる。 ごく稀に、そういうのが大好きで大好きでたまらない人というのもいるけど。

キャンプの例に関しては、どんなに先送りしても次の食事の前や、 帰る前には片づけをしないといけないので、 何らかのスキームで分担が誰かに押しつけられることになる。 つまり、この手の嫌な作業に関しては、外的要因で尻に火を付けられない限りは 誰も手をつけないということが起こりうるわけです。

これが、お仕事となると話は別で、 こういう風にあらかじめ発生することが予見できる作業に関しては、 最初からそのための人月を割り当てておくことになる。 それがマネージメントというものですな。 文句を言ってる若い奴の尻を叩く鬼軍曹がいたりする。 しかし、 楽しいキャンプにおいて鬼軍曹がいたらキャンプの楽しさが 半減するのはいうまでもないことでしょう。もちろん、 マネージメントというのは鬼軍曹スキームだけではないのですが、 いずれにしろ人の上に立つというのはいろいろと難しいことがあるわけですし、 キャンプのように関係がフラットなところではなおさらのことでしょう。

で、話題の Goodbye, Linuxにつながるわけです。

本来 Linux ってのは楽しいキャンプだったんですな。 この段階では、Linux がいいかげんなものであるというのは、 このキャンプに参加する人間にとっての暗黙の了解事項だったはずなんですね。 Linux はユーザとかそういう区別がなく、 全員がキャンプの参加者だったはずなんです。本来のコミケと同じ構造。 キャンプをバザールと言い換えてもいいでしょう。 西田さんの意見に欠けているのは、このような視点ですね。

バザールモデルにおいては、参加者の間に何らかの不満が高まると、 必ずこれを解決しようとする参加者が登場することになっています。 カーネルがらみのドキュメントに関してそれが登場していないということは、 その不満がまだ臨界点に達していないということになります。

しかし一方で、この問題って本当にそんな単純なことなのでしょうか。 私は、Linux というのはもはや、 楽しいキャンプ(あるいはバザール)ではないと思うんですよね。 古き良き要素が少なからず残ってはいるものの、 しかし現状で世界中を見回してみれば、 バザールの外側に住んでいる人間ばっかりになってしまったと思うのです。 楽しいキャンプだったはずのものが、 自衛隊の給水活動かなんかになってしまったんじゃないかのう。 もちろん、バザールの外側に住んでいる人間も、 たまにはバザールにやってきて物を売っていったりするのですけれども、 バザールの中で生活してる人は全体からみれば僅かになってしまった。 バザールそれ自体が伽藍化してしまったと言えるのかもしれない。 西田さんの意見から認識すべきことはこういう視点の必要性ですね。

ちなみに、 安易にも「文句を言わないのが悪い」という言い方をしている人もいましたが、 これはバザールモデルにおいては正鵠を得ていない。 なんでかというと、誰かが文句を言ったところで、 好きでもなく、そして自分が大して必要だと思ってないことを、 楽しいキャンプの住人がやろうとするはずがない。 「文句があるならお前がやれ」と言われるのがオチなんですね。 このキャンプでは言い出しっぺの法則が正義なんですな。 それをキャンプ全体の問題とするためには、住人の尻に火をつけるしかない。

一方で、バザールモデルが半ば崩壊した現在の Linux では、 言い出しっぺの法則というのは半分くらいは悪であるといえますな。 つまり、バザールの外からの意見を積極的に吸い上げて、 それに人月を割り振る仕組みが必要だということになる。 いずれにしろ、「そういう仕組みが必要だよね」 という言い方をするのが建設的なのであって、 「文句を言わないのが悪い」という言い方はなんの意味もないといえるでしょう。 まあもともとの西田さんの意見も全く建設的ではないんですけどね。

ところで…… NetBSD には wizd(8)という優秀なドキュメントプロセッサがいたりしますな。 あるいは *BSD 方面にはhrs さんみたいな人がいる。 「そういうのが大好きで大好きでたまらない人」 が運良く登場することもあるでしょう。うん。 しかしながら、ドキュメントというのは案外マンパワーを要求する物なので、 そういう人が数人出てきても根本的な解決に至らないのが難しいところです。

え、私ですか? 私だったら、 「ドキュメント書け」って言われたらこう答えるよ:比較優位。 我々が山小屋に行くと、 GORRY さんが食器洗いを免除されてるのも比較優位。

JASRAC

JASRAC の訴え方を考えよう!」 個人的には、 著作権等管理事業法(旧 仲介業務法) を業法としてまともにするのが先なんじゃないかという気がする。

夕方

祖父危篤と入電があったのでさっさと離脱して見舞い。

メモ

Meadow/Emacs memo

平成16年7月6日(火曜日)

昨日

「余の名はズシオ / 木村 太彦」の (1)(2)を読んだところで寝落ち。

日記

コスト 。 しかしながら、 物理的コストよりも精神的なコストのほうが大きいのかもしれませんな。

物理的コストという観点では、 この辺の文章は この日記と同程度のコストで書いたりアップデートしたりできるように なってるんですけど、でもあまり書いてない。 純粋にモチベーションの問題なのでしょう。 これが、カーネルのリファレンスマニュアルとかになったら、 もっとモチベーションは下がるでしょうね。

しかし

Javaのオープンソース化で苦悩するサン--レッシグらの助言も 。 なんといいますか、「そうしない理由はないのだから、そうするべきだ」 型の論調にまんまと乗せられてしまってる Sun がマヌケというかなんというか……

もひとつ同じ物を別の視点から: 『Java』のオープンソース化:開発者の多くは消極的 。 排中原理主義に毒されてる人は、私の印象よりは多くないということか。 原理主義者は声が大きいのかもしれない。 「オープンソース化が解決策というのなら、何が問題かも明らかにしてほしい」 と言い放つところをみると、 「そうしない理由はないのだから、そうするべきだ」 型の論調にまんまと乗せられてるだけというわけでもないらしい。

しかし、同じ物を取り上げてるのに、 どうしてこれだけ印象の違う記事になりますかねぇ :-)

平成16年7月7日(水曜日)

昨日

余の名はズシオ(3) / 木村 太彦」を読んで寝た。

平成16年7月8日(木曜日)

昨日

余の名はズシオ(4) / 木村 太彦」を読んで寝た。 未完で終了してるっぽいな。

今日

忌引。

待機で割と暇だったので漫画読み。

恋はオン・エア! / 篠塚 ひろむ」と 「恋はゲームで! / 篠塚 ひろむ」。 篠塚ひろむはミルモが当たってしまったけれど、 ああいう系統でない漫画も割と面白い。

「菫画報(1)(2)(3)(4) / 小原 愼司」。 連載当時に読んでたけど、 春ごろに急に読みたくなってヤフオクで落札したのを積んでた。 すみれさんの突拍子のなさがいいよね。

irc より

おもろいなこれ

平成16年7月9日(金曜日)

昨日

「GREEN―農家のヨメになりたい (1)(2)(3)(4) / 二ノ宮 知子」を読んで寝た。 馬鹿馬鹿しい下ネタ系ギャグとかが二ノ宮知子らしくて面白い。 ドラマでどこまでやったのか気になるところ。

今日

通夜。

互換性問題

Sun が互換性を引き合いに出すのは、 「可能か不可能か」という話ではなくて、 「どれだけ自分に有利な手駒を用意できるか」という話なのに。 結局は、現状の手駒を持ちつづけることによるメリットと、 オープンソース化(という相反する手駒)のメリットを天秤にかけてるだけだよな。 だから、「Sun の経営判断を無視する」とか言いはじめた時点で、 そんな言説には全く意味がない。 そんな排中律で割り切れるような話ではないだろうに。

「自由の形」とか「互換性確保の形」は一つではないはずなのだが、 硬直化した思考から産み出されたステレオタイプな形を仮定して、 それに反してるからという理由で批判してるに過ぎないよな。 結局、批判のための批判に堕してるように見える。 どんな下手な前置きをしようともね。 まあ「ある一面においては正しい」という言い方はできるけど、 この場合、そういう言い方をすることのなんと空虚なことか。

もちろん、Sun の言い方に批判すべき部分がないわけではないけど。 Linux うんぬんという言い方は不適切だと思う。 それが勘違い君の暴走を助長してるのは確かだろうな。

まあ、そうはいっても そう遠くないうちに Sun が Java をオープンソース化する 可能性も高いわな ← この文脈であえて言っておく必要はないのだが、 あらかじめこう言っとかないとその時になって馬鹿が以下略。

平成16年7月10日(土曜日)

昨日

微妙に読むものがなくなったので、 また「犬神くんと森島さん / 桑田 乃梨子」を読んで寝た。

今日

告別式。

帰ってきてシャワー浴びてドトールでマターリ。

「言う」方法論

ブレインストーミング的なメモ。 「特定の誰かを非難するものではありませんのであしからず」 と書いても無意味なので書きませんのであしからず(ぉ

「言いたいことの目的を明確にしよう」。 たとえば「何かを糾弾したい」という目的があるのならば、 それを見失ってはいけない。 何か特定のものを糾弾したいんだか 一般論を展開したいんだかわかんないのは最悪。 両方を言いたいのならかなり注意深く分離しないとダメだろう。

「深追いするな」。これは「言いたいことの目的を明確にしよう」 ができていないと起こる。 たとえば「何かをを糾弾したい」だけなら、無理に一般化することは避けて、 もっとエコノミーな道を探したほうが説得力がある。 Linux には互換性がない云々とかいう馬鹿馬鹿しい喩え話に対して、 一般論からの演繹でそれを糾弾しようとしても労力の無駄。

「余計なことは言うな」。これを忘れると、 たとえばコミュニケーション論を展開してるはずなのに、 なぜか読み手に「岩波文庫を読みましょう」 などという間違った結論を印象づけてしまったりします。 もっとも、この例は読み手に悪意があるだけですが(ぉ

「目的と動機の混同に注意せよ」。 「言いたいことの目的を明確にしよう」とかなり重複してる。 たとえば、「何かを糾弾したい」というのが目的なのであれば、 それを「『糾弾対象が展開している○○という理屈は間違いである』 という命題の検証」そのものが目的であるかのように置き換えるべきではない。 少なくとも後者は前者の目的を達するための手段に過ぎない。 逆に、「これは糾弾したい意見だなぁ」というのが単なる動機であって、 そこから「『○○という理屈は間違いである』という命題の検証」 という目的を見いだし、これを達成したいのであれば、 糾弾するという姿勢はこれっぽっちも見せてはいけないのだろう。

「答えを boolean で出すな」。簡単な論理命題ならともかく、 世の中、そうそう全肯定できるものも全否定できるものもない。 排中律的な結果が出たら、 だいたいそれはモデルを単純化し過ぎてると疑ったほうがよい。 自分が信じる結論を述べる時には、それをごり押しするのではなくて、 すべての選択肢を尊重した上で、 自分の結論を「お薦めする」くらいの低姿勢の方が説得力がある場合もある。

「部分を取り出すな」。 世の中は割と非線形なので、普通「重ね合わせの原理」なんて成り立たたん。 部分の議論を積み重ねたとしても、それが本当の結論になるとは限らない。 したがって、往々にして部分を取り出した話というのは空虚なものになりがち。 たしかに複雑な問題を云々する時には単純化したものからの一般化が 必要になることもあるが、そういう場合にはかなり注意深く行う必要がある。 気をつけないと、本当に言いたいこととは別の目的を 無意識のうちに設定することになる。

「感情を捨てるな」。 感情はとかく誤りやすいものだが、 だからといって感情を排するべきではないと私は思う。 だいたいにおいて「言いたいという動機」は 感情から生まれるものであって、したがって 「言いたいことの目的」から感情を取り除くとそれは空虚なものになりがち。 もちろん、感情によって強引な理屈をつけたりするのは避けないといけないが。 むしろ、感情との付き合い方を身につける方が重要なのではないかな。 私がいっつも悩んでるのがここなんだけど。 わたしゃつい話を面白くしようとするあまり暴走するからさ。 逆に、もし本当に感情を排したいのなら、それは徹底的に排さないといけない。 でも、知らず知らずのうちに感情に引っ張られるのが人というものだな。 したがって、最初からある程度感情の存在を認めたほうが楽だし、 むしろフェアだろう。

「相手の立場を考えよう」。 えーと、 「己を知り、敵を知れば百戦危うからず」という言葉がありますわな。 一般的には己を知るほうが難しいのだが、 もちろん敵を知ることを放棄しては本末転倒。 で、これは別に相手を言い負かす(つまり明確な敵がいる)場合だけの話ではない。 一般的に各プレイヤーの状況を無視してもあまり実のある話にはならない。 むしろ積極的に相手の立場の先回りをするべきだ。 先回りするときには、同時に逃げ道を用意しておいてあげたほうがよいですな。 いわゆる落とし所という奴。

「立ち止まってみよう」。 私も忘れるけど。

「間違いを認めよう」。いやー、これは難しいですな。 認めないで追記とかすると、本文との整合性がとれてない追記ができあがる。 立ち止まる余裕がないとこれをする余裕もないわけですが。

「下手に取り繕うな」。 たとえば、感情を隠してることを下手な前置きで取り繕っても無意味です。 読んでる人にはバレますってばさ。

飽きたのでこんなところで(ぉ