某日記

(後期)

平成16年7月21日(水曜日)

昨日

ゲラゲラ笑いながらシノブ伝観てから寝た。

今日

エアコン故障。エアコンの機械がちょうど私のブースの上にあるので、 修理中別のブースに臨時の席を設置。

表 3 (ぉ

ふむ 。 DRM を攻撃する rms の言葉になぞらえて 「副作用という点で GPL は DRM と同じくらいアレ」 と看破している点は面白い。

しかしながら、細かい点について語弊があるような気がするし、 何より肝心の論点についての捉え方が大雑把すぎると思う。 「フリーとは何か」というところに切り込まずに

これこそが、真の「フリー」
とぶち上げることには意味がない。その辺の話については、 私も何度か書いてるので省略。

また、真のオープンソースというのもよくわかんない。 OSD 準拠という意味であれば、定義により GPL を爪弾きにすることはできない。 理念という観点で言うと、これは GNU も指摘しているとおり、 オープンソースとは「理念の抜け落ちたフリーソフトウェア」 なので、もったいぶって「真の」などということに意味がない。

しかしながら「GPL を使うのやめようよ」という目標設定に関しては、 私も「もう GPL は歴史的役割を終えた」という見解を持っているので、 まあ頑張ってください、とは思うのですが。

irc で言われて気づいたが、これ訳がひどいな。 rms が

これをGPLでリリースし、 フリーのプログラムでは利用できないようにすることで、 コミュニティは大きく前進できるはずだ
なんて言うわけないべ。 limiting its use to free programs を誤訳したんだね。

夜中

locale.alias の追加。

libc の改造と、デフォルトの locale.alias、 locale.alias(5) の作成、sets の更新。

例の ja_JP.UTF-8 問題と、一年以上放置してた Pig 問題の両方が解決。

平成16年7月22日(木曜日)

昨日

とりたてて読む本がなかったので、手の伸びるところにあった 「少女少年(7) / やぶうち 優」を読んで寝た。 東急目黒線。なにげに住所とつじつまが合わせてあるのが怪しい。

今日

ビールが飲みたい。

今週のチャンピオン

萌え遊戯王。2 巻より:

子供扱いするなあ これでも 16 なんだから
今回:
普通の小学生として生きるんだぞ……
大爆笑。酷いよリョウガ。 このマンガ、当初からある種のギャグマンガなんじゃないかと疑ってたのだが、 疑惑は確信に変わった! いや、もうこれだけで十分(ギャグマンガとして)元取りました。

そういえば

シノブ伝見てて笑ったのは、シノブ RGB 反転やね。 セルでは面倒くさいけどデジタルだと簡単。

平成16年7月23日(金曜日)

昨日

ながされて藍蘭島(4) / 藤代 健」 を半分読んだところで力尽き。

今日

ワラタ

アレ

逆ギレ ねぇ……。 本来の意味。 それはともかく、確かにいくらかオーバーな記事ではありましたが、 でも一つの真理を突いてるのは確かだと思うんですけどねぇ。 おとといの私の日記 も参照。

さて GPL へのセールストークですが、 まあセールストークに大した意味があるとは思えないんだけれども、 もっともらしいセールストークを放置するのはそれなりに有害なので、 別の見方を与えておきましょう。

ビジネスへの効用として「ただ乗り」うんぬんということが書かれてます。 確かにそれは一面ではあるのですが、 そもそもこれはそんな一面的に言えるようなことではないですね。 ビジネスヘの利用という点でとにかく重要なことは、

  • そもそも、フリーソフトウェアにするという選択を行った時点で、 「ただ乗り」というデメリットが多かれ少なかれ発生するという認識
  • 「ただ乗りを許すかわりにメリットを得る」という発想
  • これらをふまえて、どのようなビジネスを構築するかというビジョン
が必要とされるということなのです。 この手の話はソースの開示に限った話ではありませんな。

だいたい、「企業として何のためにソースを公開するのか」 という目的意識があれば、説明責任も自ずと果たせるはずなのです。 目的を設定することと、その目的に対しての行動計画を作成すること、 そしてそれを株主などに責任を持って説明するというのが 経営者の仕事なんだから。 その際に GPL が一つの手駒になりうるという側面については 否定しませんけど。

対して、頭から「GPL ならデメリットの一部を防げるから説明責任を果たせる」 というのを持ってくるというのは、 最初から「ソースを公開すること」が自己目的になってるとしか思えない。 まず「ソースを公開すること」ありきになってる。 そんな目的設定をするのは企業人として失格ですね。 営利企業というもののプライマリな目的をわかってない。 確かに、GPL には「ただ乗り」に対する一定の効用があるというのは事実ですが、 あくまでも一面に過ぎません。 目的が変わればその効用が無意味になることもあるし、 いずれにしろこれでは GPL を選ぶ理由としてあまりに消極的過ぎる。 「説明責任論」が馬鹿馬鹿しいのはこの点ですね。 「話の流れとしてそうなった」という言い訳はできるかもしれませんが、 たとえそうだとしても、ビジネスとしてあるべき姿を無視して 論じることには全く意味がないし、 そういう議論は場合によっては有害ですらあるでしょう。

細部に移ります。まず、 「ライバルの独占的な利益に供する」ような「ただ乗り」のされかたは、 「ただ乗り」の全体ではないということが一つです。 確かに、このような形態の「ただ乗り」は、 質的には重大な損失となりうるのは確かでしょう。 でも、これがどの程度重要かは、 ソースを公開する目的によって大きく異なります。 個人的には、ソースを公開するという判断をした以上、 この点は実はそれほど重要でない場合が多いんじゃないかと思ってます。 そして、それ以外の方向の「ただ乗り」に対しては、 フリーなライセンスならばどれも同程度の耐性しかないでしょう。

また、「ソフトを書く企業」のライバルが常に「ソフトを書く企業」 ならば確かに「GPL であればそのソフトは永遠にコピーレフトの世界に留まる」 ということをもって「ライバルの独占的な利益に供することはない」 と言えるでしょうが、 今の世の中はライバルが常にそのような「狭い同業者」とは限りませんね。 このあたりは「何のためにフリーソフトウェアにするのか」 という目的そのものにも直結してくるわけですが。

もちろん、 もし仮に「ただ乗り」を防ぐための方法が何も副作用を持たないのであれば、 このデメリットを防ぐためにできる限りの方法を尽くせば済む話ではあります。 それは、究極的にはソースを開示しないことです。 こういうミもフタもない例はともかくとしても、 現実的には「ただ乗り」を防ぐための方法には必ず副作用があるのです。 フリーなライセンスの中では、GPL は上で述べたような方向では「ただ乗り」 を防ぐ効果が期待できますが、 そのひきかえとして、 たとえば元の記事で述べられているような ある種のスポイルを起こすという副作用があります。 そもそも元の記事の根本的な論点はその点を指摘してるということなのに、 これをダシにするだけダシにしつつその点は無視して、 馬鹿のなんとか、じゃなくて、 なんとかの一つ覚えみたいに「ただ乗りを防げる」 と自分の主張だけをオウム返しするのはどうかと。

まあいずれにしろ、 結局は「状況次第である」としか言えないのです。 物事を一面的にしか捉えてないんでしょうね。 ビジネスユースで 安易に GPL を勧めるという姿勢は有害以外の何者でもないでしょう (まあこれは GPL に限らず、根本的には「ソースを公開するべきかどうか」 というところから論じなければならない話)。 GPL を使うかどうかということについては、 GPL のメリットとデメリットを鑑みてその上で判断するべきなのですが、 ただ乗りの件というのはその際の単なる判断材料以上ではありえないのです。

次に、個人のケースに移りますが、 まあこっちは「勝手にすれば?」という気もするのでアレですけど、 「自分のソースコードがいつまでもオープンソースであることが保証される」 「世の中にオープンソースソフトウェアが増えることに貢献できるかも」 という両方について、 「別に GPL でなくてもある程度は期待できる」という点を挙げておきます。 これも GPL のデメリットとのバランスですよね。 だいたい、後半に関してはちょっと看過できない言い草ですわな。 お勧めが必要な人というのは基本的に無知な人ですから、 「GPL 以外では貢献できない」と取られかねない。 少なくとも語弊がある。 こういうのに対して 「事実に反する」という言い方をする人もいるかもしれませんねぇ。

私の個人的な意見としては、 「GPL は他のフリーなライセンスより理解が難しい」 「GPL は他のフリーなライセンスよりユーザの直接的行動を拘束する」 というデメリットがあるし、少なくとも個人という立場ならば、 コピーレフトに賛同してない限りは GPL を使う必然性がないと思います。 非コピーレフトなフリーソフトウェアライセンスでも十分なのだし、 これらのデメリットを飲み込んでまで GPL を使う必然性を感じていません。 したがって、GPL はお薦めしません。 ユーザの実用的な立場に立って考えるのならば、そして、 開発者も廻り廻ってユーザであるという点を少しでも認識しているのならば、 もっと透明度とユーザへの放任度が高いライセンスをお薦めします。

たしかに、歴史的に見て GPL の効用がフリーソフトウェアというものの普及に 大きな影響を及ぼしたのは確かでしょうね。 でも、オープンソースとかフリーソフトウェアみたいな考え方は 既に世の中では一つの考え方として確立されてるわけだし、 もはや GPL の威光をこれ以上使わなくても独り立ちできるところまで 来てるんじゃないかと思います。

rms はこういう考え方を思想的廃退と言うでしょうし、 こういう考え方を思想的廃退と見なすようなファンダメンタリズムこそが、 FSF や GNU、ないしはその思想を具現化しパッケージ化した GPL というものの存在価値なわけですが、 個人的には、もうこのムーブメントに対する求心力としての ファンダメンタリズムの必要性はそれほど大きくないと思うわけです。 オープンソースムーブメントというのは、 まあ理念が抜け落ち過ぎてる嫌いはあるものの、 ある意味そういう時代背景を先取りして生まれてきたものと言えるでしょう。

平成16年7月24日(土曜日)

昨日

さっさと寝た。

つづき

この人は…… 。 GPL が貶められたことにしたいんですね。 そういうレッテルですべてを無視してそれで済むのならば、 それはそれで楽でしょうけど。そして、オープンソースが流行となっている今、 このようなハリセンボン戦法がそれなりに効果的なのも確かでしょうね。

件の記事の最大の問題は、 「自由の質」についての認識が甘すぎるという一点に尽きます。 これは確かに批判されてしかるべきでしょう。 「自由の質」についての認識がないから、 自分の考える自由の質とGNU の主張する自由の質が違うことをもって、 GNU の自由が自由ではないように捉えてしまう。 そういう狭い見識で GPL を攻撃したり、 「真のフリー」とぶち上げるのは明らかに行き過ぎ (もっとも、こういうのを逆ギレと言うのは M ワールドだけですけど)。 注意深く FSF 等々の主張を読めば、 GNU の主張している「自由」が 「放任」ではないなんてのは明らかなんですがねぇ。 結果論を言えば、 GNU の落ち度は「タダ」と「自由」の間の誤解を解くことにばかり気を取られて、 「自由」そのものの質に関しての誤解はあまり問題にしてこなかった、 ということでしょうね。free という言葉のもつ魔力についての配慮は、 しすぎてし足りないということは全くない。open もまたしかり。

まあ、「真のフリー」という言葉に対する嫌悪の情を捨てれば、 それなりにいいことも言っている。むしろ、 細部に関してはしっかりと考えてみるべきですねぇ。 まあ、私の日記の読者のような人々ならばきっと「何を今さら」 という感想を持つであろうことしか言ってないんですけども。 逆に GPL を持ち上げてる人々が、 この辺の話について真面目に論じているのを私は寡聞にして聞いたことがない。 私が寡聞なだけかもしれないけど、 どうもそれ以前のところでハリセンボン化している例しか見たことがない。 そして、その例に新たな一ページが加わったということですね。

ところで

ちなみに私は、rms という人は嫌いではないです。 彼は自分の役割をよく知っている。 自分のファンダメンタリストとしての役目というものをちゃんと理解してるし、 口には出さないけどプラグマティストの立場も ちゃんと理解してることが言葉の裏からよくわかる。

「GPL マンセー」な人は論外としても、 表向き「他の立場も理解できるが」とか言っている凡百の GPL 擁護者とも役者が全然違うよな。

もちろん、私も積極的にフリーなソフトを書いてる人間ですから、 彼の考え方のある程度の部分には共感をおぼえますが、 彼の考え方の別の部分、特にコピーレフトなんて手段には全く賛同しませんし、 むしろ嫌悪の対象ですらありますが。

って、俺何度も同じこと書いてる気もするな。 日記だと書いたということを忘れちゃうのよね。 コラムに「愛すべき rms」とかそういう文章でも書きますかね :D

平成16年7月25日(日曜日)

昨日

スイートな王様(1) / 水島 みき」 「スイートな王様(2) / 水島 みき」 「スイートな王様(3) / 水島 みき」 を読んで寝た。

今日

何を言ってるんでしょうこの人は 。 BSD ライセンスは「崇高な精神」なんかから来たものじゃないですよ。 このレトリックの下らなさにはさすがに呆れますわ。 こういうことを言うから歴史修正的だとか言われてしまうのですよ。

BSD ライセンスについては過去にいろんなところですでに論じられているとおり、 実利的な理由から考えられたものです。別に崇高な理由ではありません。 今日 BSD ライセンスを好む人も、その多くは実利的な理由から BSD ライセンスを 選んでいるといえるでしょう。 もし、BSD ライセンスを使うことに崇高な精神があるとすれば、 それは「フリーソフトウェア」との関わりにおいてであって、 結局は GPL と完全に源を同じくする部分においてのみです。

対して、GPL というのはフリーソフトウェアの中の さらに先鋭的な思想(つまりコピーレフト)を実現するという 「崇高な精神」から生まれたものです。これは歴史的に見ても明らかなことです。 その崇高な精神を無視して実利面に abuse している人々がいるのは確かですが、 少なくとも(abuse かどうかという見解についての判断を置いておいたとしても) そういう実利的方向性は歴史的に見ても(あるいは現在においても) GPL の本筋ではありませんね。

このレトリックの馬鹿馬鹿しさは、 あたかも「BSD ライセンスとは崇高な精神に基づくもので、 崇高な精神の旗印の元では何をやってもよいという口実を与えるものである」 という間違った印象を与えるところにありますな。 この手の論法というのは、昔からよく使われてきたものですね。 自分の側のやってることをそのまま相手のやってることだと推論して、 それをもって糾弾する。実に馬鹿馬鹿しい。

別のレトリックは、BSD ライセンスよりも GPL の方がコストが低いという結論を勝手に仮定し、 しかも、これが明確な主張として表われていないという点ですな。 BSD ライセンスと GPL のどっちのほうがコストが低いかは、 それにかかわるそれぞれの人の立場によっても、 時代背景などの周辺状況によっても異なります。具体的な例は略。

あー馬鹿馬鹿しい……。言論の自由が保証されている以上、 どんなに馬鹿馬鹿しい意見にも逐一反論しなければならないというのも、 自由放任に伴うコストという奴ですな。自由とは全く奥が深い。

ちなみに、「GPL 至上主義」と「GPL でないライセンスを選ぶこと」 は全く矛盾しませんな。言論上の立場において GPL 至上主義者である人が、 自分の現実的な立場における実利的な判断のもとに 非 GPL な ライセンスを用いるということがあっても、 それは全くもって普通のことと言えるでしょう。 私はどちらかといえば放任至上主義に寄っていますが、 利用者としては GPL なソフトウェアも使いますし、 もし必要とあらば GPL なソフトウェアを書くこともあるでしょう (し、実際に(フロムスクラッチではないですが)書いてます)。

いろんな意味でありがとう 。 この人は特称と全称についての認識が足りてませんね。 まず、「崇高な精神」ですけど、 私はこうも言ってます(仮定 A):

今日 BSD ライセンスを好む人も、その多くは実利的な理由から BSD ライセンスを選んでいるといえるでしょう。
「どこから来たか」という話だけではなくて(これはこれで重要だけど)、 ちゃんと現状についても述べています。で、 「BSDライセンス・ラブの人がやるべきことは〜」 というのは明らかに特称ではなくて全称ですね。 総体としての「BSD ライセンスを好む人」です。 もし仮にこれが特称なのだとしたら、 よっぽど配慮が足りないか、あるいはわざとミスリードを誘ったものでしょう。 「崇高な精神を見出してそれに賛同するという立場の人間」がいたとしても、 (それが少なくとも比較的少数であるかぎりは)あまり問題ではありません。 適切な反論をするのなら、 「仮定 A は間違いである」「仮定 A を証明しろ」ですかね。 いずれにしろ社会学的方法以下略ですな。 あるいは、「あくまでも特称だ」と強弁してみるか。 まあこれが誰の目に見ても特称なのだとしたら今ここで謝っておきますね。

言いがかりについてはどうでしょうねぇ。 とりあえず鏡を見てから言ってください(←俺もか)。 まあ、全然言いがかりではないとは言わないけど。 とりあえず「全称」であるという解釈が正しいとすれば、 最初から実利的な立場の人間を無視して、 あたかも「崇高な精神を見出してそれに賛同するという立場の人間」 が全称であるかのように述べるやり方 (そしてそれに関連づける形で「文句をつけるうんぬん」言うやり方) がレトリックでなければ何なのだろう。単なる視野狭窄? しかしながら、「よくできた欺瞞」と「無能」は、 その見た目も、そしてその効用も区別がつかないからなぁ。 後者だったら私の言いがかりなのかもなぁ。 まあこれが誰の目に見ても後者なのだとしたら 今ここで(己の無能さを)謝っておきますね。

GPL ではなく修正 BSD ライセンス(以下 BSDL) を薦める理由

MIT ライセンスとかでもいいけど。

まず BSDL の放任性について。 GPL との比較という点においては、 BSDL は著作の人格にかかわる適正な表示と免責を要求しているだけで、 それ以外の部分では GPL のような利用者に対する直接的な 自由の制限を生じないという特徴があります。 BSDL における要求はその理由が自明ですが、 GPL は利用者に対する直接的な自由の制限について、 何らかの自明でない正当化を必要とします。 それが「コピーレフトという崇高な思想の実現」だったり 「作者の実利確保」だったりするわけです。 この点についてどう解釈するかは人それぞれですが (そもそも「正当化なんて必要ない」と考える人もいるでしょう)、 少なくとも何かを考える必要はあります。 しかし、BSDL においてはこういうことは一切考える必要がありません。

次に BSDL の透明性について。この観点において、 BSDL は GPL よりもずっと「何ができて何ができないか」が明白です。 「そんなことはない」と言う人もいるかもしれませんが、 これは調べようと思えば社会学的な方法でケリがつけられるでしょうし、 その結果は容易に予想ができますね。 「そんなことはない」という立場に全く説得力がない。

つまり、ソフトウェアの作者の立場としてのメリットは、 他者への配慮という点で気が楽であるという点なのですね。 少なくとも GPL よりは気が楽といえるでしょう。

また、ユーザとしての立場からすれば、 BSDL は GPL よりも制限がゆるくて楽に使うことができるという利点があります。 ほとんどのライセンスは BSDL と矛盾しません。 少なくとも、GPL よりは矛盾しないライセンスの集合が多いと言えます。 そして、ソフトウェアの作者も潜在的な利用者であるということは 忘れてはいけません。

というわけで、BSDL を使いたい人は、 堅苦しい「崇高な精神」なんて話は真に受けず、 その「放任性と透明性という実利」 をもってこれを選択することに全く問題がありません。 もちろん、自分自身の利権の一部分を失う覚悟は必要ですが、 これは程度と質の差はあれ GPL でも必要となります。

ちなみに、自分自身の利権のどの程度を失うかということについて、 GPL との大小という比較は一般的にはあまり意味がありません。 なぜならば、失う利権が包含関係にないからです。 完全に個々の話についての判断になります。

なお、 「GPL なソフトの一部を取り入れるために BSDL に変更してもらう必要がある」 という話について軽く触れておきます。 これは上で述べた「ほとんどのライセンスは BSDL と矛盾しません」 とは全く別の話なので混同しないように。 この話は真実ではあるものの、いろんな意味でナンセンスなのです。 たとえば、誰も 「Windows の一部を取り入れるために BSDL に変更してもらう必要がある」 なんて言わんでしょう。あまりにも自明ですから。 これは BSDL と直接関係した話ではないんですね。 単に「制限を緩くしてほしい場合にはその要求をする必要がある」 というだけのことです。逆に言えば、 「GPL なソフトに BSDL なソフトを自由に取り込める」というのは、 直接的には GPL のメリットなのではなくて BSDL のメリットに起因しているのです。 これを GPL のメリットとするのは、原因と結果を取り違えた強弁ですね。

ライセンスを人格として見るとするならば、 そういう強弁を許すあたりに BSDL のお人好しな面が表われてるといえますな。 擬人化するときは考慮してくださいね。

平成16年7月26日(月曜日)

昨日

無印学園天使(1) / 水島 みき」 「無印学園天使(2) / 水島 みき」 「無印学園天使(3) / 水島 みき」 「Ns’あおい(1) / こしの りょう」 「でろでろ(1) / 押切 蓮介」 を読んで寝た。

再検討

まあ、片っぽばっかり叩いてもアレなので、 この記事 をもう一度取り上げてみましょう。

この記事のおかしいところはどこだろう。 まず、次の点の箇所((A)(B)(C)(D)は引用者によるインデックスづけ):

(A)しかし、プログラムをBSDライセンスやほかの オープンソース・ライセンスでリリースしたい場合には、 手段がなくなる。(B)プロプライエタリ・ソフトウェアのベンダのように 振舞わない限り(白い目で見られるだろう)、GPLでライセンスされた 圧縮ルーチンは利用できない。
(C)オープンソース・コミュニティのほかの人々は、大量のGPLソースコードへの アクセスを認められず、フリーソフトウェアへの入り口で締め出されている。 (D)これは自由という意味でのフリーといえるだろうか。

(A)。この論法がナンセンスなところは、 「他人のプログラムを勝手に自分のライセンスでリリースする手段なんてない」 というごくあたりまえのところに帰着しますな。誰も 「Windows を BSD ライセンスでリリースしたいが手段がない」 なんて言いませんな。当たり前過ぎて。

(B)ですが、前半の手段を使っても白眼視されるなんてことは多分ないから、 技術的にそういう方法で済むのならそうすれば良いと思う。 GNU/FSF/rms もそれにケチをつけることは恐らくない。 で、別に前半のような手段によらなくても、GPL でライセンスされた 圧縮ルーチンが利用できないかというとそんなことはない。 一つのプログラムで GPL な部分と BSD ライセンスな部分が存在しても、 これは一向にかまわない。それぞれが分離可能な形で存在するかぎり、 それぞれの部分はそれぞれのライセンスでカバーされる。 この点は意外と誤解されてるかもしれない。 結果として得られた「ソフトウェア全体」は確かに GPL でカバーされるのだけれども、フリーソフトウェアという形で利用する限り、 これはあまり問題にはならない。 しかし、コンパイル済みのバイナリ「だけ」を再配布したいような事態が 生じた場合には、バイナリから GPL な部分を丹念に取り除く必要があるでしょう。 これは、フリーソフトウェアの世界から飛び出そうとする試みなので、 当然のことですな。 要するに、権利上の観点でプロパーな GPL と BSD ライセンスの最大の違いが どこにあるかといえば、それは 「フリーソフトウェアであることから離脱する自由があるかどうか」 ですね。

(C)これは完全に勘違い。(B)のところで指摘したとおり、 「フリーソフトウェアという形で利用する限り」においては全く締め出されない。 これを何らかの形で非フリーソフトウェアの世界に持ち出そうとすると 使えなくなるだけ。入り口で締め出されているというよりも、 出口で GPL がつっかえて出られないという表現が正しい。

(D)は、まあ(C)が間違ってる以上はひとまず意味のない問いかけですな。

続きは帰ってから。

再検討(2)

本当はここで、 上の(D)における「自由」について触れておくべきなのかもしれませんが後回し。

次に「本来の目的を達していないGPL」に移ります。

まず最初に明らかにしておくべきことが一つあります。 GPL は確かに、コピーレフトのコンセプトを実現するために考えられた ライセンスですが、GPL のみでそれを完全に実現できないことは明らかです。 たとえばこれは、他人のフロムスクラッチなコードに対して GPL を強制的に適用するすべがないということを考えてみればわかるでしょう。 また、このように原理上不可能な部分だけではなく、 GPL にはプラグマティックな見地によって最初からコピーレフトのコンセプトを 曲げてある部分も存在します(つまり OS や処理系にかかわる例外条項)。 したがって、少なくとも「GPL が本来の目的を達することのできないケース」 というものが存在することは最初から折り込まれているわけです。 よって、「本来の目的を達していない GPL」という議論をする場合には、 これは「どの程度目的を達していないのか」という形にならなければなりません。

このことを踏まえて文章を細かく見ていきましょう。

まず次の点について:

DRMは、私が楽曲をコピーすることを止めることはできない。 音楽を共有したいと思っている限り、人々はDRMを回避する手段を 見つけるだろう。 GPLも同様だ。誰かに対して、ソフトウェアをフリーにするよう 強制することはできない。プロプライエタリにしたいと思えば、 ライセンスを回避するだろう。
ここに関しては、次のような問題点を挙げることができます:
  • DRM はまずたいてい技術的に回避可能だが、DRM の回避は違法である。 一方、ここで述べられている「GPL の回避」は、 確かに技術的に回避可能という点においては DRM と同様だが、 しかし決定的に異なるのがこれが完全に合法的であるという点。 違法なものと合法なものを一緒に述べるべきではない。 もしわざとやっているのだとしたら立派なレトリックだ (しかしながら、この文章にそういう意図があるようには見えないけど)。
  • ここで述べられている「回避」は、GPL というものが登場した時点で すでに折り込み済みの問題である。 つまり、この点において確かに GPL は GNU の理念を完全に実現する力を 持ちえないが、誰も最初から GPL にそれを期待していない。
DRM との類似性についての部分は割と論外なので置いといて、 後者に関してはせいぜい 「GPL を採用する人がこのような回避に気づいていなかったらどうするんだ」 という言いがかりをつけることができる程度でしょうな。

この次の「先ほど私は〜」で始まる段落も、やっぱり同様に 「事実だけど GPL には最初から期待されてない」話に過ぎない。 その次の「これはStallmanが〜」に至っては GPL とコピーレフトが混同されてる。 Stallman は確かにあまり良い顔はしないだろうけど、 Stallman 自身はそういう事態を当然想定済みだわな。 この著者は GNU FAQ すら読んだことがないのだろうか。

「KDE/QTの状況」については、私は個人的にこの部分に一家言あるわけですけど、 それに関しては(心情的にはこの筆者と近いものの)関係ないので置いときます。 まず、Qt は「プロパーな GPL」ではないということに注意する必要があります。 上でも述べたとおり、 「他人のフロムスクラッチなコードに対して GPL を強制的に適用するすべがない」 ので、Qt が GPL とそれ以外のライセンスの デュアルライセンスであることについて GPL には全く責任がありません。 したがって、「このコードをフリーと呼べるだろうか」という問いかけには 「フリーではない。だからどうした」と言われるのがオチです。 この点を攻めたいならもうちょっと別の切り口が必要になりますが、 いずれにしろ純粋に論理的な手法で崩すことは無理です。

「このような事態を、GPLによって防ぐことは不可能だ〜」というのも同様。

次の二つの段落(「アプリケーションが〜」と「これは、Web上の〜」)についても、 基本的には同様です。ただし、この点に関しては、 歴史的事情で完全に GPL の想定外のものであったということは事実ですし、 これをもって「GPL は時代に即していない / GPLv3 では改善されるべきだ」 という議論が過去にあったのは事実です。

以上のように、「本来の目的を達していないGPL」のセクションは、 ほとんどが最初から GPL の想定内の話にすぎない。 最後の二つの段落は確かに「新しい問題」なので、 わずかにそこで挽回してはいるものの、 しかしながらこれをもって「本来の目的を達していないGPL」 と言うには言い過ぎです。 また、Qt の話も、切り口によってはもう少し面白い話になるんですけどねぇ。 で、それだけならばいざしらず、大きな誤りがいくつも見られます。 根本的に問題なのは、GPL とコピーレフトの混同ですね。 全くお話になりません。

再検討(3)

さて表 3 の登場です(ぉ。 「望まない利用をされたくなければ、オープンにするしかない」のセクション。

まず最初の段落(「コピー防止機能付きCD〜」で始まる段落)。 「全く止められない」のならばいざしらず、 「完全には止められない」ことをもって「意味がない」ということはできない。 そして GPL は、本来想定されている範囲では実によく機能していると思う。 これをもって GPL を放棄するという理由にはしにくい。

「BSDやMIT形式のライセンスなら、このような問題が解決される〜」というのは、 「コピーレフトの実現を放棄するべきである」という部分に根拠がない以上、 単に「単体でトートロジーを構成している」程度の意味しかない。

「ライセンスの心配がなくなれば、どれほど楽か想像してみてほしい〜」 も同様。確かに楽ですけどねー。

「一方、GPLコミュニティ内の〜」はどうにも意味不明なので 原文 を当たってみた:

You might notice the parallel with how people in the GPL community can re-use GPLed code: put simply, BSD-style licenses knock down the community's gates and let everyone use open source code for whatever they like. Here's the ultimate test of freedom: can I use GPLed code in my BSD-licensed program? Can I use BSD-licensed code in my GPLed program? (No I can't, and yes I can).
翻訳:
あなたは、「どうすれば GPL コミュニティの人々が GPL なコードを 再利用できるか」ということとの比較が気になるかもしれない。 簡単に言えば、BSD スタイルライセンスは このコミュニティの門扉をはね飛ばし、 すべての人が自分の好むいかなる事のためにもオープンソースコードを 使うことを許している。 ここに自由についての究極のテストがある: 「私は GPL なコードを BSD ライセンスなプログラムに 取り入れることができるでしょうか?」 「私は BSD ライセンスなコードを GPL なプログラムに 取り入れることができるでしょうか?」(それぞれ NO と YES だ)
確かにこの放任性が BSD ライセンスの(利用者にとっての) 利点であるのは確かだけれども。

「コードを未練がましく保護〜」の最後の行をのぞいた部分に関しては、 「そういう考え方もあるだろう」程度ですな。

で、問題の「これこそが、真の「フリー」、真のオープンソースだ」について。

私が再三言っているとおり、 「自由」というのはそもそも幅の広い言葉なのですね。 どういう質の「自由」を仮定するのかによってその意味が大きく変わってくる。 まず第一に、この点(「自由」とは一つではない)を認識する必要がある。

しかるに、この記事の筆者はこの記事の中で一貫して GPL が「自由ではない」 と主張している。それがこの最後の一文に結実してるように思える。 しかし、GPL がどういう質の自由を実現しようとしているかは GNU がしっかりと述べている通りなんですね。そして、 GNU の主張している「自由の質」と GPL が実現しようとしている「自由の質」 は一致していると言えます。単に、この「自由の質」がこの記事の筆者の考える それと一致していないというだけですね。

この筆者の取りうる正当な批判というのは、 本当は「真の自由とはこれこれこういうことである」としっかりと定義した上で、 「GNU の主張している自由は真の自由ではない」 という形式でなければならないはずです。 この場合、その議論の積み重ねの細部にこそ主張の魂が宿るといえるでしょう。 しかし、この筆者の主張は実際には「GPL は自由ではない」 という形に短絡しているようにみえる。これでは全然説得力がない。

「真のオープンソース」に関しても用語の定義の問題であって、 これを「OSD 準拠」という意味で取るなら純粋に定義により GPL をつま弾きにはできないし、 「オープンなソース」という意味で取るとしても、 結局は「オープン」をどういう意味で取るかによって 大きく異なるということですね。

総括

というように、 まあ全体としてみればかなり馬鹿馬鹿しいというのは事実でしょうね。 で、こういう風に論を積み重ねてゆけば馬鹿馬鹿しさは簡単に明確にできる。

返す刀で恐縮ですが、簡単に馬鹿馬鹿しさを明確にできるんだから、 それをすっとばした上にダシにして GPL をお薦めしてもしょうがないし (まあでもこれはいいでしょう)、 ましてや BSD ライセンスに褒め殺しまがいの変な論法を適用するのは、 はたしてこの記事の論法の低レベルさとどう違うんでしょうかね。

最初のセクションはもうちょっと細かくやってもよかったかもねん。 やってるうちに後ろが細かくなってしまったので、バランスが欠けてる。

まだ 2.0 が出てない段階でアレですが、 パッチリリースは 2.0 以降 2.0.x ではなく 2.x になるようです。 2.0 の次のメジャーリリースは 3.0 っつーことですな。

平成16年7月27日(火曜日)

昨日

GET LOVE!!フィールドの王子さま(4) / 池山田 剛」 「天神爛漫紀ORIGAMI(1) / 水都 あくあ」 を読んで寝た。GET LOVE はどうも性コミの毒に当たりはじめてるような 気がして心配。ORIGAMI は折角の巫女妹設定なのにぃ、という感じ。

もう少しだけ

んー 、 とりあえず一足飛びに「レトリックである」という断じ方をしたのが 一方的であるのは認めましょう。この点において、 私の属する世代うんぬんが出てくるのはまあわかります(うさんくさいけど)。 しかし、主張している内容のおかしさについては、 そういう部分は全く関係がありません。 誰かが「崇高な精神を感じる」という崇高な精神活動を行っていたとしても、 わたしゃ気にとめません。問題はそんなところにあるのではないのですね。 純粋に文章構造からそれを示すことができます。

まあメタな話になるのでアレなんですが、 この主張の中で、

(A)だから、BSDライセンス・ラブの人がやるべきことは、 「GPLには(私に都合の良い)自由がない」と文句つけることではなく、 「我々の高尚な理想に君も賛同しよう」と啓蒙することではないか。
という文章がありますね((A)は引用者による)。 この (A) が成り立つためには、 「(B)BSDライセンス・ラブの人は、 その崇高な理想のためにそれを好んでいるのである」 という暗黙の仮定が成り立つという前提がないと言えないわけです。 なぜならば、啓蒙の動機が「我々の崇高な理想」だからです。 言い替えれば、(B) 成立は (A) 成立のための必要条件なわけです。 そして、全く背景を知らない人がこの文章を読んだだけでは、 この仮定がどの程度真なのか、さっぱりわからない。

ところで、たぶん中学校の数学で習いますが、 (B) 成立が (A) 成立のための必要条件ならば、 (A) 成立は (B) 成立のための十分条件なんですね。 ここで、発言者は (A) を主張している(=(A) が成立すると主張している)。 十分条件の定義によって、(A) が成立していれば必ず (B) も成立します。 したがって、発言者は (A) を主張することによって、 演繹的に (B) が成り立っているということも主張しているわけです。 そう主張することにならないためには、 あらかじめはっきりと (B) が仮説であることを述べておかねばなりません。 ここまではいいですか?

次に、ここで問題になるのが例の全称/特称という奴です。 (A) における「BSDライセンス・ラブの人」が特称であれば、 これは別に問題ない。 (B)が成り立つような「BSDライセンス・ラブの人」 もそりゃ少なからずいるでしょう。 しかし、この発言を前提知識なしに読んで、 はたして「BSDライセンス・ラブの人」というのを特称と取れるのでしょうか。 おそらくほとんどの人はそうは取らないでしょう。 「BSD ライセンスを好む人」の総体としてしか読めない。 もしこれを特称として述べたいのならば、 (A) を「このような崇高な理想の実現を目的として BSD ライセンスを 好んでいる人がやるべきことは〜」などという形で書かねばなりません。 それとも、「BSDライセンス・ラブの人」というのは 発言者の言語世界においてそのような一部の 「BSD ライセンスを好む人」を指す符丁なのでしょうか。 例の M ワールドにおけるオープンソースのように。 それならそうと明示しなければなりませんね。

いずれにしろこのままでは特称とは取れないので、この文章は

  • (B) が成り立つ
  • したがって (A) が成り立つ
と主張しているのと等価になっているわけです。 しかし、実際の文章では「(B) が成り立つ」 という仮説については述べられず、 しかも暗黙のうちに真であるということになってる。 この文章を発言者がどういう意図で書いたかというと、考えられる可能性は
  1. これが発言者の真意であり、 なおかつわざとこういう形にした(これは明らかにレトリック)
  2. これが発言者の真意だけれども悪意はなかった
  3. 特称のつもりで全称になっていた
のいずれかだと思うのですが、いずれにしろ文章構造的には詭弁そのものです。

次に、果たして (B) は成り立っているのかどうか、 ということについて考えてみます。 純粋にこの文章が詭弁的構造かどうかという観点では、 実はこの真偽はあまり問題ではなかったりします。 しかしながら、実際上は仮定 (B) が「極めて真実に近い」 とプレイヤー間で十分に認知された事項であれば、 これを暗黙のうちに真実であると仮定して使用しても、 それは十分許容範囲といえるでしょう。 こういうのまで逐一述べなければいけないとなると、 いくら時間があっても本質的な議論ができなくなってしまいます。 こういうのをオッカムのかみそりといいます。

しかし、仮定 (B) は事実でない可能性が高い。 少々主観的ではあるものの、 私はいくつかの状況証拠によってそれを示したわけです。 百歩譲って真実である可能性があったとしても、 仮定 (B) が「プレイヤー間で十分に認知された事項」 であるとは思えない。

人間はこういう構造の文章をみると、上で述べたようなプロセスを経て、 (B) のような暗黙の仮定が真実であると簡単に思いこむ性質があるようですね。 前提知識がない人は特に顕著でしょう。 したがって、特に「有名人」が公に行う発言ならば、 影響力という観点からこういうことには非常に注意する責任があるわけです。

まとめるとこういうことです。つまり、 前提条件なしに (B) の成立を仮定しているがこれは真実ではない。 しかし、この文章は (B) の成立を真実であると誤認させる効果がある。 あるいは、こういうような話に続けて

どのライセンスにしたらよいか迷うような、ライセンスについてあまり 難しいことを考えたくない人は、とりあえず実利的な点からも、 GPLを選択しておいた方が良いと思う。
と GPL の実利的な面を持ち出した後に、
もちろん、BSDの高尚な理想に賛同して、 人類全体により積極的に貢献したい人は、 (そのコストを理解しつつ)BSDライセンス(または類似物)を使ってほしい。
と対比することは、 さらに仮説 (B) が真実であるかのような粉飾を行う効果がある。 少なくとも、こういう論法は真実に対する冒涜であると言っても 言い過ぎではないでしょう。 これが私が問題としている点なのです。 最低でもこのラインまでは私の一方的な主張でも何でもないですね。

もし、世代うんぬんという話が出るとすれば、 この歪曲が結果的にどういう実害を生むのかという認識についてでしょうね。 逆に言えば、実害があるとはこれっぽっちも思ってないから、 発言者が事実を歪曲していることに気づいていないのかもしれない。

そして発言者本人は こんなところが問題だと思ってる 。 世代間の言語感覚の違いのせいだと思いこんでいる。 もちろん反論しようとする動機にその世代的な何かがないとは言いませんが、 それは本質的にはこの文章のおかしさとは関係ないのです。 まあ確かにこの期に及んでこんなところを問題にしてるようでは、 意図的なレトリックではないのかもしれない。 でも一方でよくできた欺瞞は以下略。

論理と感覚

しかしながら、感覚というのはこういう変な理屈を検出するための有効な チェック機構なのは確かですね。 論の積み重ねによって感覚的におかしい結論が得られた場合、 それは結論がおかしいか、感覚がおかしいか、 あるいは両方ともおかしいかのどれかです。 私が反論してるのは、 紛れもなく感覚によって「これはおかしい」と感じたからですね。

まあ、演繹の過程における誤りはチェックを注意深くすることによって、 純粋に形式的な方法でもエラー率を下げることができますけど、 その分コストがかかるわけです。 感覚は結論に別の角度から光を当てることによってその発見を 早める効果があります。 また、そもそも目標が間違っていると論理は無力ですが、 ある程度こういうのを検出する能力もあります (この辺はゲーデルの不完全性定理と微妙に関係がありますね)。 したがって、 いろんな立場の人間のまっとうな感覚を身につけておくことは重要ですね。

このあたり、実はソフトウェアのテストにも関係があるんですが、省略。

オッカムのかみそり

この言葉も面白い。

これは厳密には「不必要に実体の数を増やしてはならない」 というオッカムの言葉が元なので、 上のような使い方は厳密に言えば間違いです。どちらかといえば、 論理の道筋で余計な回り道をするな、という意味ですね。 こういうような回り道の例としては、たとえば、 ある現象を説明する証拠にトートロジーを付け加えるような行為です。

したがって、上の文脈におけるオッカムのかみそりは拡大解釈がされている。 付け加えられるのがトートロジーではなくて 「あまりにも自明な仮説」なんですな。 で、割と議論あるいは対話においては、 こういうのは暗黙のうちに削ぎ落としてよいという暗黙のルールが存在する。 「事実上トートロジー的なもの」なんですね。

ただ、この拡大解釈版オッカムのかみそりにおいては、 「削ぎ落としてよい」かわりに 「明らかな仮説のみを削ぎ落とし、そうでないものは必ず残さねばならない」 という責任を話者に課すわけです。またその対話の相手は、 話者が削ぎ落としている仮説についてちゃんと認識し、 それが自明なものかどうかを常に斟酌する必要がある。

この拡大解釈版オッカムのかみそりは日常会話ではごく普通に使われます。 だから、みんな意識せずにどんどん「削ぎ落とす」ことに馴れてる。 「かあちゃん、アレどこやったっけ?」 なんてのはさらに拡大解釈したオッカムのかみそりと言えるかもしれない。 人はこういうのに馴れてるので、 ついうっかり「自明ではない仮説」を削ぎ落としてしまうことがある。

まあ、ついうっかり話の目鼻を落とさないように気をつけましょう、 ということで。

本当のオッカムのかみそり

しかし、上の文章読んでると、「本当のオッカムのかみそり」の意味で、 もっと短くかけたような気もするな。 つまり、「自明でない仮説を暗黙のうちに真であるかのように使用している」 で十分かもしれない。ただ、これだと何でこの形式の詭弁が恐いのか、 ということが分かんないのよね。どうしても構造まで明らかにする必要がある。

文章構造を踏まえてこの形式の詭弁の危険さがどこにあるかということを 考えてみると、「甲だから乙」という文章を、 実は乙を証明するのが目的なのではなくて、 条件甲がいつの間にか真で確定しているかのように すり替えるための目眩ましに使える、という部分なんですね。 あるいは、意図的に使っているのではなくて話者自身の目が眩んでいるか。 いずれにしろ、読者の目が眩んでしまうという点において、 意図的であろうがなかろうが嫌らしい。 「BSDライセンス・ラブの人がやるべきことは、 我々の高尚な理想に君も賛同しようと啓蒙することではないか」 なんて、これだけ見て暗黙の仮定が単なる仮定であることに気づかなかったら、 実にもっともらしい。 だからこそ、意図的じゃなかったとしても嫌らしいと思いますよん。

で、結局のところ考えられる可能性は、

  1. 私の論法のどこかに根本的な誤りがある
  2. 私が根拠としている仮説のどれか、あるいはすべてについて、 見解の相違がある
  3. 「BSD ライセンスを好む人とは、 崇高な理想の実現のためにそれを選んでる人のことである」 と、まつもとさんが本気で思ってる。
  4. 実は「BSDライセンス・ラブの人」とは、 「BSD ライセンスを好む人」のなかでも特殊な人々を指す符丁であり、 しかもそれが自明である。
  5. まつもとさんの全称と特称に関する認識、 あるいは無意識のうちに詭弁を弄していることへの認識が甘い。
  6. まつもとさんの意図的なレトリック。
くらいですかねぇ。1 か 2 なら悪いのは私ですが、 3 は誤りであることをすでに述べた。4 はさすがにないだろうし、 5 と 6 ならしかるべき態度をとるべきでしょうね。

まあ、結局本人が何も言わないので、本当のことは何も分からんわけです。 えてしてこの手の話は、 詭弁であることを証明する側は長々と論を重ねなければならないのに対して、 詭弁のほうが(その単純さによって)プレゼンテーションとしてみた場合に 説得力があったりする。まああまり割に合わない。 そういう意味で、黙っていたほうが得だったりするので、 まあ賢い姿勢かもしれません(負け惜しみ)。

土俵

んー 、 でも今回の話って土俵以前の問題なんですよねぇ。 今回の一連の話の中で中身のあった文章といえば、私の書いた 「GPL ではなく修正 BSD ライセンス(以下 BSDL) を薦める理由 」 くらいじゃないですか。土俵を変えてもどうせ議論にならん気がする。

この件に関して、 私は GPL 擁護の立場と BSDL 擁護の立場の両方で論じることが可能ですが、 なんというか、平行線にしかなりようがないし、 それでも議論にしようとすればアホな水掛け論にしかならない。 まともな立場でできることといえば、 ライセンス選択のための情報を与えることくらい。 元の記事のように、まともでないことを言う人がいるからおかしくなる。 おかしな記事からスタートしても、おかしな記事叩きになるだけで、 意味のある議論にはなりようがない。

まあ、細かい点で考えるべきところはいくつかあるんですけどね。 GPL の実利的利用と Qt の話とか、IBM の GPL 戦略とか。 ただ、GPL のメディアへの露出自体が私の利益に合わないので、 正直あまりやりたくない。 ちなみに、BSDL はあまり考える部分がありません。 まあ GPL と比べて面白みに欠けるといえばそうかもしれません。 彼女は呑気ちゃんですから :-)

そういえばだいぶ前に依頼があったような気がするな。 あれを断ったのは、Linux うんぬんじゃなくて、 どっちかといえば時間的な問題と、あと依頼文にカチンときたからなんだけど。

しかし、書く書くと言っている文章が全然書けてないな。 ソースも書けてない。困ったもんだ。

平成16年7月28日(水曜日)

昨日

小山荘のきらわれ者(1)(文庫判) / なかじ 有紀」 を半分くらい読んだところで寝た。

perl6

perl6 。 「たとえば、円記号は、Perl 6では2つの配列を結合する(交互に組み合わせる) のに利用される」ってそれは無茶だろ :D

原文でも 「The yen symbol」と言ってるので、バックスラッシュではないやね。

平成16年7月29日(木曜日)

昨日

「小山荘のきらわれ者(文庫判) (1)(2)(3)(4) / なかじ 有紀」 を読んで寝た。神戸は少女漫画によく似合う。

夕方

それなりに忙しいが神保町行ったりとか。

Me たんが役に立たなかったので Win2000 を入れたり。

夜中

ふむ 。 「彼らの製品について理解しなければならないのです」 「フリーサイズの万能ソリューションはありません」そのとおり。 ここからスタートせねばならぬ。 まあ、短い読み物でそれなりにポイントは押さえてあるような気がする。 それにしても、NewsForge って記事によって質がバラバラだよな :-)

ライセンスに限らず問題解決一般に言えることだけれども、 まずさまざまな状況を知るところから始めないとダメ。 ここまではこの記事も言っている通り。 また、どんなライセンスがあるのかということや、 各ライセンスを理解するというのも重要。

次に忘れてはならないのが、 ライセンスは常にライセンサーとライセンシーの両方が 存在して初めて成り立つものだという点。 これは当たり前のことなのだけれども、 しかしながらライセンスというのは普通ライセンサーが 一方的に決める性質のものだから忘れがちですね。 その両方の利害をうまく調整して落とし所を探すという作業になる。 そして一方的だからこそ、より兜の緒を締めてかからねばならぬ道理。 線形ではないので、半分の価値観で考えても問題は半分も解決しませんね。

また、フリーソフトウェアのライセンスによる波及効果というのは 多くの場合自分にも跳ね返ってくる。 そのため、ある種の弁証法的思考が要求される。 ライセンシーの利益は実はライセンサーの利益でもあったりするわけです。

以上、言葉は違えど私が何度も繰り返してることだな。

ところで、j.l.c の記事って、 原文へのリンクが見当たらない気がするんだけど気のせい? 原文 。 「相互性」は「reciprocity」の訳語らしい。 むしろ「相互作用」のほうがわかりやすいかも。 どうもこの言葉のこの記事における意味は、 いわゆる伝染性(infection)とは違うものらしい。 この記事では MPL は「reciprocal」であると言っているが、 しかし MPL は「infectious」ではない。

平成16年7月30日(金曜日)

昨日

眠かったのでそのまま寝た。

漫画

漫画が増えてきたので管理入力用にバーコードリーダ欲しいなぁとか。 でも 13,000 円くらいするらしい。 基本的に一回しか使わないから微妙な値段だ。

で、 世の中にはすでに同じことを考えて実行した人 がいるらしい。

平成16年7月31日(土曜日)

昨日

STEP―小山荘のきらわれ者番外編 / なかじ 有紀」 「好きと言えない / なかじ 有紀」 を読んで寝た。

今日

花火。北斗星取れたらしい。この際開放 B 上段でも我慢するべ。 夕飯の心配をしなくていい分エルムよりはなんぼかマシ。