.とりあえず今回のきっぷ: .ルート図: |
.大阪: .加古川 103: .西脇市で乗り換え: .へそ: .谷川 113: .福知山着: .福知山から特急きのさきでワープ: .綾部 113: .東舞鶴から 125: .若狭湾の小島: .敦賀からサンダーバード: .富山にて TLR (乗らなかったけど): |
.富山から南下: .猪谷にて神岡鉄道おくひだ1号(乗らず): .猪谷駅舎。ここからはバス: .バス。道狭い: .角川: .古川からは特急ひだ: .高山: .今日の飛騨路はあまりいい写真が無い: .美濃太田から太多線: .多治見から特急しなの: .今日の木曽路は天気が良すぎて逆光: .篠ノ井線内: .長野から新幹線: .よなよなエールで乾杯: .一昨日の夜東京を出て、やっと東京についた。東京は遠いぜ: |
.最近の GBA のマジコンの類を調べた。
.GBA/NDS FAT ライブラリ見てると、カートリッジ領域のアドレスにマップされた I/O ポートでメモリカードにアクセスしてるようなのだが、どうやって ROM イメージと共存してるんだろう。考えられるのは「何か特殊な方法で共存してる」「32MByte フルの ROM イメージは使えない」「そもそも ROM イメージとは共存できず、EWRAM 領域で実行してる場合(いわゆるマルチリンクモードがその典型例)に限って使える」くらいか。 .しかし世の中はどうもすでに GBA ではなく DS に移行してる模様。 |
.\. から しぶとく残り続ける俺オープンソース - オープンソースの閉鎖性にはうんざりなので、そろそろオープンソースコードコンソーシアムでも作るかね。 .Q.オープンソースコードって何?: A.ソースコードをオープンにすることです。 .Q.オープンソースとは違うの?: A.ブルドックとオタフク程度には違います。 |
.不思議なことに、原子力って調べれば調べるほどあまり危険じゃないように思えてくるんだけど、これって洗脳ですかねぇ。 .まああえて原発の隣に住みたいとは思わないけど。しかしながら東京近郊に住んでいる私のこの感情は実にアンビバレントなものであって、地震で近い将来大打撃を受けるであろう東京にいるよりは、若狭湾沿岸とかで暮らしていた方がまだ天寿を全うできる可能性が高いことは明らかなのだ。もっとも、そういうところにはロクに仕事も娯楽も無いから、ぼくたちは瓦礫の下に潰されるリスクを背負って東京に暮らしているわけだけれども、それが原発の横に住むよりずっと危険なことだということを認識している人がどれくらい居るのかは怪しい。 .もちろん、私は原発を無条件肯定するつもりは無くて、それどころかあまり遠くない未来に全廃する必要があるだろうとは思っているのだが、それは危険性よりもむしろ継続性の問題。石油の枯渇を防いで二酸化炭素の排出を抑えるために原子力を使うってのは、結局は同じ性質の問題の形を変えて先送りしているに過ぎないので、いつかは根本的に解決しなきゃならない。これは、国土が狭くて捨て場所に困りがちな日本では特に顕著なことだと思う。 .しかしながら、とりあえず現状で優先順位が一番高いのは石油の枯渇に備えることと二酸化炭素の排出を抑えることであって、そのために使えるコマは決して多くない。現状では原子力というのは致し方がない拙速の一手であるという点について正しく認識する必要があると思う。 .こういう観点でいえば、現状における原発賛成派と反対派の対立というのは、あまり好ましいとは言えないように見える。困ったものだ。 |
.「人は行動した後悔よりも、行動しなかった後悔のほうが、深く残る - トーマス・ギロビッチ」という大和証券の CM がある。この言葉をポジティブバカな人種は「だから行動した方がいいんだね」と解釈するが、これは明らかな誤解であって、「行動しなかった後悔は割り引いて考えた方がよい」と受け取るのが正しい。 .しかしながら、この逆であるところの「同じ後悔の大きさだったら行動しなかった方が実害は小さかった」が成り立つのかどうかは、よくわからないのだが(経験則から言えば、概ね成り立つのだけれども)。 .夕方からバーベキュー臭ただよう仕事場に。毎年恒例の春日三丁目町内会牛二頭丸焼きバーベキュー大会らしい。「春日三丁目町内会」というのが歴史を感じさせる。 .疎結合・密結合 - よくわかんないけど「プロジェクト間の結合が疎だから、一つだけアップデートするのに躊躇する」という意味と思われる。そのくせプログラムどうしは密結合してるので以下略。 .MS 製品の場合、多少これらの傾向は少々緩和されてる。つまり、製品間の連絡はそれなりに取られているし、プログラムの結合は COM (メカニズムというよりその規約主義)で多少は疎になっている。もっとも、オープンソースな諸ソフトウェア群と比べて、どの程度マシなのかはわからん。 .COM みたいな仕組みが UNIX にも標準で入っていればなぁ。たとえば GTK アプリケーションを使いたいだけなのに GNOME フルセットをダウンロードしてくるような pkgsrc にはウンザリ。こういうのは、 COM みたいなものが標準で存在して、インターフェース記述およびスタブだけを配布するというスタイルが整っていれば、だいぶ緩和できるはずなんだが……。 .最近よく CSS2 の overflow 特性使ってるのを見掛けるのだが、IE で overflow: hidden とかやってるページを開くとスクロールに支障が出ることがあるので困るナリよ。たとえば「そのボックスの上で中ボタンクリックしてもオートスクロールできない」「そのボックスをクリックするとスペースキーでスクロールできなくなる」など。 overflow: scroll との兼ね合いでバグってるんだと思うが。 .この伝でもう一つ困るのが、 UTF-8 使ってるのに lang で言語指定してないページ。うちの NetBSD の FireFox だと KSC 5601 なフォントが優先して使われちまう。このデフォルトって変えられるのかなぁ……。 .最近アレゲあんてなのエントリ数が減ってしまって、 kinneko 日記とかに御無沙汰してしまっている。何より、僕の大好きだった Matz にっきが失われてしまったのはぞっとしない。 .例の「オープンソースコード」に関連して、オープンに変わる平易な言葉はないかとあれこれ模索しているうちに、OSD 原理主義がなぜウザいのか、よくわかった。「オープン」という言葉は実に意味が広いのだ。これと比べると、 OSD というのはオープンという言葉が本来持っている守備範囲の 1/10 とかそういうごく狭いところに押し込めてしまっている。オープンという美しい言葉を OSD という牢屋に閉じ込めてしまった連中は決して許されるべきではない。 |
. . |
.寿司食ったうまかった。 .噂によると |
.松戸ランドにいくので府中本町から武蔵野線に乗った。西浦和でカメ子発生してたけどなんだろう。 .FCB 見てきた。 .かなり久しぶりに天狗。 .なんかマンガをいっぱい買った。というか買わされたというか。 .François Yergeau のインタビュー - 本題はともかく「Unicode の策定にどれほど日本人が関わったのでしょうか」うんぬんの非難じみたくだりにはなんか大きな誤解があるように思う。「悲しいことだがどうしようもないことだ」ってのはなんていう言いぐさだろう。実際、頑張ってる人は頑張ってるのになぁ。努力が報われないってのはこういうことかもしれんね。 .Unicode は少なくとも「どうしようもない(=どんなに努力しても無駄)」ってことはない。単に大元の設計の筋が悪いだけで。筋が悪いものも努力次第で実用的にはなるんだが、それは苦行を伴う。苦行を強いる原因に対してムカつくことはあるだろうが(そしてその苦行から逃れる術がないという点については「悲しいがどうしようもないこと」なんだが)、それは「書けない漢字がたくさんある」というような実用性の先行きに対する悲観ではないはずなんだがね。 |
.何という言いぐさだ - まず断っておくけれども、わたしゃ Unicode は嫌いです。少なくとも、自分で積極的に使おうとは思ってません。 Unicode の全体を把握してるわけでもありません。Unicode 3.0 あたりからは規格が大きくなりすぎて辛い。でもまあ基本的なところはおさえているつもり。 .とりあえず、問題を「欧米人がどんどん勝手に」と「それに従ってしまった日本人」の二つに分けますね。 .「欧米人がどんどん勝手に」という話をより一般化していえば、「ネイティブでもない人間が勝手に文字コードを考えることの尊大さ」と言い替えることができると思います。こちらに関しては、確かに考えるべき点が多いのです。 .私の呑み友達に I hate Unicode って公言してる CCS という人が居るのだけれども、この人があるとき「確かに日本人はソフトウェアの国際化に関しては先んじているけれども、それはせいぜい漢字圏の話であって、アジアとかの複雑な言語についてではない。我々は分かってるようなつもりになっているけれども、欧米人から押しつけられて嫌な思いをしたことと同じことを、アジアとかに対してやらないとも限らない」というようなことを言っていたのだけれども、これには当然私も同意する。 .ところで、 Yergeau 氏のいう しかし何だかんだ言っても Unicode は現在大成功を納めていると思っています.全ての書法が未だ含まれているわけではありませんが仕事は継続されています.また嬉しくも驚くべきことに数的にも経済的にも主要な言語の書法は全て既にコード化されているのです.という言葉にはどうもわたくし既視感があって、 1993 年ごろにもこれと同じようなことを言う連中が居たわけです。これが主に日本の技術屋の反感を買ったのはよく知られてることだと思います。 .でも、こういうことを 1993 年に言うのと 2006 年に言うのとでは全然状況が違う。第一世代の Unicoder は本当に「16 ビットで十分だろフフン」なんて感じだった。対して、2006 年の Unicoder には少なくともそこまで無知な人はいない(と思う)。もう 10 年も前の話になりますが、 Unicode 2.0 で 100 万字まで扱えるように拡張されているという事実を考えれば、その時点で既に「16 ビットで十分だろフフン」とは考えていない Unicoder が少なからずいたということです。また、この時点で「16 ビット固定で十分」という幻想は崩れたわけです。 .確かに、 100 万文字で足りるのかどうかとか、 Unicode という方式で将来に渡って大丈夫なのかどうかは誰にも分からないので、こういうことをもって「尊大さ」が消えるとは言わないけれども、彼らは決して押しつけているだけではなくて、理解しようと努力してるのも事実です。何の根拠もなく「16 ビットで収まる」と言っていた頃とは違って、実際に成果を上げた上での発言なのだから、少なくとも「16 ビットで十分だろフフン」な時代と同じ基準で Yergeau 氏の発言を受け取ることはできないと思います。まあ確かに、未だに少しカチンと来る発言ではあるかもしれない。しかしながら、いちいちそういうところに噛みついていてもしょうがないというのも、 Unicode 騒動で日本人が学んだ事なんじゃないかね。 .次。「それに従ってしまった日本人」ですが、詳しくは書きませんけど ISO-10646 の策定というのは日本の代表にとってはそれこそ断腸の思いだったと思います。でも、Unicode に影響力を残すことには成功してるわけです。少なくとも、面という概念を残しただけでもあの時点としては十分頑張ったと思います。前述の通り、その後 Unicode はサロゲートという方法で都合 17 面に拡張されています。 .確かに Unicode 1.x は大いなる遺恨を残してるのは確かです。 Yergeau 氏が 既に存在するキャラクターセットとの互換性が強く求められています.これは Unicode に大きく影を落としていることでもあってその為ますます複雑になり辛い妥協を強いられるという寸法です。と言っていますが、この「既に存在するキャラクターセットとの互換性」と言っているものの中に BMP (つまり「Unicode 1.x そのもの」)が含まれているのは冗談みたいな事実です。こういうところが私の言う「筋の悪さ」であって、「苦行(=ますます複雑になり辛い妥協を強いられる)」というところに繋がってる。Unicode 以前にあったコードだけでもアレなのに、そのうえに BMP という新しい筋の悪さを持ち込んだというところが Unicode の罪悪だというのは、多くの人が認めることだと思います(もちろん悪だけでもないけれど)。 .まあ、国際関係においてある程度妥協が必要になるところはあるんだけれども、大抵は時間が解決してくれる。もちろんぼーっとしているだけでは解決されなくて、「16 ビットで十分だぜフフン」とか言ってる連中を啓蒙したりとか、 16 ビットの制限を取り除くための技術的な努力とかは必要なんだけども。その努力が十分だったかどうかはわからないけれども、少なくとも「欧米人」は 13 年間何も学ばなかったわけではないし、「日本人」は 13 年間言いなりになって指を咥えて見ていたわけではない(いや、 ISO-10646 策定過程まで考えれば 13 年どころではない)。 .「それに従ってしまった日本人」というのを一般化すれば、「外圧に屈してしまうネイティブ」ということになるんでしょうが、そんなステレオタイプな対立構造で済ませてしまえるなら簡単でいいけれど、実際にはそんな簡単なことではない。少なくとも日本人は、部分的な妥協はしても完全に諦めたりはしなかった。 .で、非難するからにはそんなことは先刻御存じだと思うのだけれども(あるいは「大きな誤解があると思う」と私が指摘してるにもかかわらず)、この期に及んで 世界中の文字を16バイト、65356文字の中に納めよう何て無理な試みを平気でやってしまう欧米人とか それに従ってしまった日本人とか言っているのは、その後「欧米人」の学習とか「日本人」の努力とかによって、 Unicode の枠が 100 万字に増えたこととか、その他諸々の成果なんてのは取るに足らないものであって、 2006 年の今 Yergeau 氏がああいう発言をする資格はないし、やっぱり 1993 年に ISO-10646 を通した欧米人も日本人も未だに許せないのだという解釈で OK? 少なくとも私は、そんな意見には賛同できません。 .いやまあ技術屋としての美意識が Unicode なんてものを許したくないってのはあるけども、多かれ少なかれ実用技術ってのはそういうもんでして。それにしても文字コードまわりは特に酷いけどさ。延々述べた通り Unicode にも問題は多いのだけれども、この 13 年間欧米人は押しつけるだけではなかったし、日本人は諦めるだけではなかった。そこのところはあまりにステレオタイプに解釈しすぎだと思います(そもそも欧米人 vs 日本人という対立で解釈するのもどうかと)。少なくとも、諦めていない人を捕まえて「悲しいことだがどうしようもないことだ」と思っていたかのように決めつけるのはどういう言いぐさだと言われても仕方がない。 .CCS さんからメールが来たので張り付け: .メール中に出てくるリンク: .樋浦さんで思い出したが、こないだなにげなしに Unicode.org 見てたら Unicode Technical Standard #37 Ideographic Variation Database 1.0 ってのを見付けて、「ああやっと異字体タグが入ったんだね」と思った。果たしてこれが筋の良い物かといわれると首をかしげなくもないけれど、技術的にはインドあたりの結合文字でグリフを変化させてるのと変わらない。 .あれ、また CCS さんからメールがきたぞ……: あはははは。まあ樋浦さんも Unicode そのものは許容しつつ、 Unicode イズム(UCS Normalization とか)は拒絶してたりするしのう。 .一応断っておくけれども、上でサロゲート持ち出してきてるのは単に「65536 文字うんぬん」という話に呼応しているのであって、 SIP みたいに比較的なんでも放りこむようなことになってしまったのが良いといってるわけではないので念のため。まあ小林さんの言葉を借りるならば「一体何と何を区別したいんですか」というところのコンセンサスが SIP だったということなんだろう。 |