.録っておいた封印されたカードを見たが、体が既にセル画を受け付けなくなっていた。セルロイドを常用する手法でアニメが作られていた時代の末期を華々しく飾っている CCS ですら、もう古くさく見えてしまう自分の感覚にはどうにも困ったものだと思う。まあこのあたりはマスタリングとか後処理にも依るのだろう。 .もえちり!(2) / 堂高 しげる - 例によって「編集者がズレたネタ出しをする」→「作者がそれを地球七回転半くらい曲解する」→「収拾つかず」という設定で延々と引っ張る怪作。 |
.「ドラえもん」の呆れた制作裏事情(1) とか 安達元一 ブログまとめ とか。本音と建前はちゃんと使い分けましょう。 .Winny - 曰く、わかりやすさだけを主眼にする……すまん、どこがわかりやすいの? .某所から 【ニセ科学】「マイナスイオン、根拠なし」「ゲーム脳、親のしつけの問題」…菊池教授、NHKで批判 - 「信じる者は巣くわれる」ワロタ。 .Wiiのセンサーバーを自作してみた - 簡単だな。これを応用すれば、オーロラビジョンでも Wii スポーツとかできそう。 |
.ステルス・ウェブ・デザイン - モチーフの源泉としてそういう構造を拠り所にするというアイディアはともかく、こういうのを「デザイン上の必然であるということが、理論的に言えてしまう」と言ってしまうことは、典型的な因果と相関の錯誤に見える。 .たとえば、ハニカム構造ってのがありますな。あれは構造的にも強いしステルスにも利用される。そして、確かにある種の美しさがある。でも、その美しさの源が「構造的にも強い」とか「ステルス性がある」とかそういうところにあるとはとても思えない。むしろ、「シンメトリーな構造」というところに全ての源があると考えたほうが常識的だと思う。この常識の系においては、
.こういう関係があるときには、えてして右辺どうしに相関関係が生まれる。たとえば「ステルス性があるものは、美しく見えることが多い」みたいな。困ったことに、こういう相関関係は因果関係であると勘違いされやすい。しかしこれが「理論的」であるためには、この文章を次のように書き換えなければならない --- ステルス性があるものは、えてしてシンメトリーな構造を取るから、美しく見えることが多い、と。 .深い洞察力、慎重さ、自省力なんかがあって初めて「理論」の名に値するものができる、ということは肝に銘じておこう。 .どうも私の嗅覚は、「言語年代学」とかあの辺の「理論」と同じ香りを感じとっている。探求心という観点からすれば、もちろんこういうものを論じることは必ずしも無意味ではないけれど、取り扱いに注意が必要なのは確かだろう。いずれにしても「ステルスデザインの理論」について知っているわけではないから、訝しさを表明する程度にしておいて「理論的でない」と断言するのは控えておこう。 |
.妊婦転院死の奈良・大淀病院産科、来春から休診 - あくまでも私の印象であって根拠はないけれど、地域医療の崩壊は深刻なのかもしれない。人員不足でだましだまし続けてるところは他にもたくさんあるんだろうな。行政が後手後手に回っていて、問題が顕在化してからでないと動かないような印象があるんだけれども、なんとかならんもんかのう。 .LinuxカーネルのIRQをめぐる大論争 - この記事を読んでも、論点がどこにあるんだかさっぱりわからんな。誰かまともな解説をお願い。 Linus は、ユーザ空間から割り込みを操作するための kludge を入れることを拒否してるのか、それともユーザ空間で割り込みを取り扱うこと一般を拒否してるのか。レイテンシとかスループットへの要求が低いドライバだったらユーザ空間にあってもいいじゃん。 |
.あらゆるマイナスイオンは効果がないと決め付けてしまう人 - 実際のところ、「マイナスイオンが健康に良くなるという科学的な根拠はない」というセンテンスと「あらゆるマイナスイオンは効果がないと決め付ける」こととの間には意味的には大きな隔たりがあるのだけれども、それは置いといて、やっぱり科学の徒というのは圧倒的に不利な条件を背負わされるんだなぁ、という気はする。 .常に科学者が語弊なく物を語らないといけないということになれば、「マイナスイオンで髪が潤う」というワンセンテンスに対し、いちいちこんな長ったらしい反論を書かなければならんということになってしまって、これではどう見ても情報戦という戦いの上では勝ち目がない。かといって、科学者が科学者としての権威を使って「マイナスイオンなんてウソだよ」とか発言して対抗するのは、方法論としてはニセ科学と同じことになってしまう。仮に主張の内容が正しくても、主張の方法が正しくない主張というのは許されない。そういうことを片方だけ選択的に許せばフェアでないし、両方に許せば単なる泥仕合にしかならない。もちろん、「片方(エセ科学)にだけそれが許されているアンフェアな状態」からスタートしているのは確かだけれども、果たしてそういう状況をさらに悪化させて良いものかどうか。前にも書いた気がするけれど、勝てないけど正しい方法を選ぶか、勝てるけど正しくない方法を選ぶか、というジレンマがあるやね。そして、えてして科学者は、前者へと自縄自縛してしまう傾向があるのは確かだろう。 .しかしながら、「勝てるけれども正しさを極力犠牲にしないプレゼンテーション」というものについて、ちゃんと努力してきたかといえばどうもまだまだ模索の余地はあるような気はする。この点に於ける科学の徒の側の(正しいということにあぐらをかいた)怠惰というのも指摘しないとフェアではないのかもしれない。 |
.時刻表の土曜日のところを見て、すぐバスが来そうだと思っていたのに全然こない。 20 分近く待ったら来た。 .ドトールでマターリ。 .コメダでまたーり。 .最終のバスに間に合うように駅に戻った。電車が来たので、なにげなしに開く前の扉の中を覗くと、長椅子のすみっこに座っているおじさんが、顔を真っ赤にしていかにも「もう飲めませんもう飲めません、いや飲めないどころか出ちゃいますから出ちゃいますから」という感じで立ち上がる気配を見せていた。俺の脳内駅員さんが「ドアの前を広く開けてお待ちくださーい」とアナウンスしたので、いつもより余計にドアの前を広く開けてお待ちしていたら、そのおじさんが立ち上がり、まだ開いていない扉の前まで来て、そして扉が開いた途端にカキ臭い香りを辺りに振り撒きながらホームへとヨロヨロと出ていった。私はそれを見送ってから電車に乗り込んだ。 .電車は空いていたけれどすぐに降りるので、反対側のドアに寄りかかって振り向くと、さっきのおじさんがおっとっとっとという感じでホームにつんのめっていた。危ない、と思ったが、もう間に合わない。スローモーションで倒れてゆくおじさん。バランスを崩して気が緩んだのか、腹に力が入ったか、あるいは運動量保存の法則を利用して倒れる勢いを殺すつもりなのか、さっきまでお酒とおつまみだったものの混合物を口から虹色に逆噴射するおじさん。しかし重力は無情にも彼の体を引き倒すのを止めようとはしない。そして、重力はあらゆるものに平等に作用するから、液体だろうが固体だろうがリンゴだろうがニュートンだろうがミミズだってオケラだってアメンボだってお構い無しに落下させてゆく。まず、ホームに粘度の極めて高そうな水たまりができ、しかし、その水面の揺らぎがおさまる間を与えずに、次の刹那、その上に身体ごと覆いかぶさるおじさん。閉まるドア。走り出す電車。 .ほのかに車内に残っていた酒臭さで微妙な気持ちになりつつ、最寄駅まで戻ってきて改札の前まで来たところ、夕方のニュースを思い出した。「今日は天皇誕生日」と言っていた。天長節天長節っと……ふとそこで、今日は土曜日ダイヤではなく祝日ダイヤだということに気がついた。嫌な予感がする。ロータリーのバス停まで行って時刻表を見てみたら、案の定もうバスがない。「ゆういちぃ〜、しょんぼりサタデーだよぉ〜(声の出演:國府田マリ子)」という声が脳内に響いたが(誰がゆういちじゃ)、それに構わずにロータリーの向こう側を眺めてみるとタクシー待ちの列は長い。しかたなく歩くことにした。いっつもしょんぼりサタデーはこの罠に嵌められる、という意味でもしょんぼり。そうか、行きに予想外に待たされたのもそのせいであったか。 .帰ってきて、そろそろ漫画の山をなんとかしないといけないな、と思いつつ、まずは処分本を記録するためのアプリケーションづくり。 JAN コードを入れると Amazon を見に行ってタイトルと著者名を引っ張ってきて CSV で保存するアプリを二時間くらいででっちあげた。 .バーコードリーダーはだいぶ前に買ったのがあるので、これをノート PC につないでピッピッと入力。 110 冊ほど部屋から追い出した。しかし全然減ったような気がしない。困ったもんである。 .ダイヤ改正情報: 東日本(PDF) / 東海 / 西日本 - 東海号の廃止、 N700 の投入(7 月)、全車禁煙化の拡大がトピック。銀河はまだらしい。 |
.誰かが「水は 100 度で沸騰する」と言ったら、「それは正確ではない」と言うべきか否か。そんなのは状況による。しかし、世の中には科学者が「水は 100 度で沸騰する」と言うことを許さない人もいるらしい。 .最近、別の例を見た。誰かが「国家がなければ人間社会は立ちゆかない」と言ったら、「大昔はそうではなかった」というようなつまらない反論をする人もいるらしい。我々があくまでも近代以降の社会に暮らしているということを考えれば、注釈無しに「国家がなければ人間社会は立ちゆかない」という文章が出てきたら、それは最初から近代以降の社会という文脈のごく一般的な状況を仮定するのが、善意の読解というものではないのだろうか。 .ある種の優秀な人々は、こういう善意の読解がきちんと行われることを期待して、まるで高速道路をスーパーカーで走るがごとき速度で文章を組み立ててゆくのだが、悲しいかな読者の方がえてして田んぼの畔道だったりするので、そのうちこのスーパーカーはクラッシュしてしまうことがある。畔道をスーパーカーで走るのが悪いのか、畔道が悪いのか、それは私には分からない。 .また別の例を思い出した。新聞かなんかに書いてあった「電球よりも LED の方が省エネで電気代がかからないから、 LED が安価になってきた今、これを使ってイルミネーションをいろいろなところに設置するのが流行っている」というような文章に対して「イルミネーションなんかしないのが一番の省エネだ」という反論をしてる人を見た。何が何やら。もうこうなると、何をどう書けば誤解が生まれないのか、私にはさっぱり分からない。 .話が少しずつ着実にズレていったおかげでいつのまにか全然違う話になってしまったような気がするが、話を戻せば「水は 100 度で沸騰する」という文言に反論したくなるのは典型的な屁理屈病の症状であって、私もそのケがあるから十分注意しないといけないなあと思う次第。 |
.本を片付けてたら、かなり前にブックオフでまとめて 5 冊買ってきたまま積んであった「成恵の世界」が出てきたから読む。面白いっすね、これ < 二周遅れ .しょうがないのでブックオフに行ってさらに 3 冊追加。 .マイメロ。死んだ人に逢いたい逢いたいと、ずっとそんなことばかりを考えてると、遂には自分も冥途へと足を引っぱられる……そんなお話。 .夢野家の人々を中に残してマイメロが一人病院を出ると、既に日はとっぷりと暮れていた。さっきまで降っていた雪は止み、晴れ渡った夜空をマイメロは見上げる。満天の星空の中に、ふと、ひときわ明るい星が二つ、仲良く並んでいるのを見付けて、マイメロはポツリと言った。「きっと今頃は、琴ちゃん、向こうでお母さんと再会しているわよね……」 < そこまで黒いアニメではありません .さらに 120 冊を追い出した。目標追い出し数 1500 冊。しかし道は嶮しい。 |
.前に途中までうpした曲ができた(MP3) 。 10 月に作り始めたのだが、さすがに年は越したくなかったので急いで完成させた。これはさすがにまともな音源で作りなおしたいなあ。こういうのはストリングスがまともな音で鳴ってくれないとサマにならない。 .曲自体の解説。作り方は、いつものように脳内作曲。今回はサビのメロディから作った。サビの 4 小節めで一音上に転調して元に戻らないというパターンで、つまりは C メロの 8 小節と C' メロの 8 小節は似ているけれども調が一音違う。サビの先頭は G メジャーなのに、二回転調してサビを抜けるときには B メジャーになっている。こういうのはターンバックが容易ならざることになるということに最初から気づいていたけれども、案の定一つの曲としてまとめるときにはこれが鬼門になって苦労した。 .A メロと B メロは後から作った。 A メロの最後を C メジャーで終止して同主調の A マイナーに転調すると見せかけて、実は A ドリアンモードになっているということに二小節めで気づく、という風にメロディを計算してある。 4 小節目からの訳の分からない転調はメロディとコードが勝手に脳内に響いたので書き留めただけ。たまにこういうこともある。ただしサビへの繋ぎでちょっと手間取ったのは以前にも書いた通り。 .サビから A メロに戻る間奏は打ち込む前にコード進行だけ決めておいて打ち込んだ。これも脳内でピッタリ合う進行にするのに苦労した。サビからサビのリフレインをつないでいる方の間奏はこないだ適当に作った。これも最後につじつまをあわせるのには苦労した。適当に作った割には気に入ってる。リフレインの 3 小節目の変なフレーズのストリングスは G# トライアドをアルペジオで乗せてるだけなのだけれども、こういうハッタリ技もたまにやると楽しいやね。 .雨。 .人には二つのタイプがある。何をやっても迷惑にならない人と、何をやっても迷惑になる人だ。だいたいそういうふうに二極化するように見える。 .次のように言うと疑問に思う人がいるかもしれないが、つまり、迷惑の神というのは行為にではなくて人に宿るのではないかと思われるフシがある。昨日、バスの中で携帯電話を使っている人がいたが、不思議とこれは迷惑に感じなかった。もちろん、バスの中で携帯電話を使うという行為自体はルール違反ということになっているので、ルールを守らないということをもって迷惑であるとすることもできるのだけれども、そういう理屈はともかくとして、そういうことを周囲に迷惑と感じさせずにできる人というのも世の中には居るものだ。 .さて、バスを降りて、駅の改札に向かった。すると、主婦数人が改札の前でつっ立って誰かを待っているような素振りを見せていた。この駅の自動改札機は入口出口共通のレーンがほとんどなので、電車がそれなりに来ると出る人で塞がって、入れるレーンがひとつだけになる。その前に陣どって、ボーっとしている。邪魔である。私は少し半身ぎみになりながらレーンに入ったが、それでもやっぱりボーっとつっ立ったままであった。このように、迷惑になる人というのはえてして、ただ突っ立っているだけでも周囲に迷惑をかける。スペースがいくらでもあるにもかかわらず、そこに立ったら迷惑だというところにピンポイントで立つのがこの手の人々の神懸り的なところ。 .私には、この二種類の人種の違いがどこから生じるのかはっきりとしたことはわからないのだが、どうも迷惑をかけるというのも一つの才能なんじゃないかという気がする。 .夜。雨はますますひどくなる。帰りに目黒線に乗っていたら、案の定オーバーランしまくる。目黒線は自動運転なのでこれは運転士のせいではなくて機械が普段と違う状況に対応できてないせい。オーバーランしてしまうと、さすがにこれは自動では危険なので運転士さんの出番となる。ところが運転士さん、自動運転のせいで腕が訛ってるのか(運転士の普段の運転操作は発車ボタンを押すことくらい)、「バックします」といいつつ何度も前進してしまうし、そうこうしているうちに出発踏んじゃったのか指令と通信してるのだが、その内容が車内放送切り忘れて丸聞こえとか、そんなていたらく。しかしながらむしろ車内は和やかになるのが目黒線のいいところ。田園都市線のように始終混んでる線ではこうは行かない。 |
.そろそろ年貢の納め時と観念するような心持ちになってきた。言うまでもなく会社から源泉票を貰ったのである。実際には、もう取られてる分ともっと後で取られる分があるのであって、今がまさにその時というわけではないけれど。 .水道橋の中華料理屋で忘年会。料理はいまいちだったかもしれぬ。 .9 時すぎに終わったので、神保町まで歩いて漫画を買った。 .そして江田コメダ。 .VistaでUnicode以外の選択肢はなかったのか?──京大の安岡助教授が語る - また気持ち悪い見出しを付けやがる。要約すると「Vista では JIS X 213 において行われた Shift JIS の拡張をサポートしてない(もちろん従来通り CP932 はサポートしてる)」という趣旨の文章が何でこういう見出しに化けるんだろう。ひょっとして、これが噂の文字化けというものでしょうか? .出生届に戸籍で「死亡」11年放置し「再製」のまま - まあもちろん、「再製」と書く必然性が本当にあるのか、というところから検討すべきではあろうが、「再製」の文字が残ることを問題視しなきゃならないような仕組みなり風潮なりこそが問題ではないか。たとえば、分かりやすいところに「事務上のミスにより再製」とでも書いてあれば何の問題もなかろう。まあ確かに、これが死亡ではなくて結婚なんかだったりしたら、それくらいしっかりと書いておいてくれないといろいろと困る(誰だお前にはそんな心配は必要ないだろうとか言う奴は)。しかしながら、それ以上の潔癖さを戸籍という単なる名簿に求めるようだと何か面白くない。面白くはないのだが、どうも一般的な日本人にはそういう過剰な潔癖さを戸籍に求めている人が少なくないような気がする。これはどういう心理なんだろうか。戸籍原本によって日本国に合祀でもされてるのか俺たちは。 |
.ずっと寝てた。 .『萩原朔太郎の詩、こころに着想を得て作詞されました』の不思議 - 率直に言って不思議な意見だ。とりあえず、宮崎五朗とそれを取り巻く人々の一連の行動の是非はともかく、一般論として「法律に違反していない」ということと「悪くない」ということとは違うので、批判すること自体は別に問題ないと思うんだが。宮崎五朗に対して著作権侵害であるというような批判をしているのならばともかく、単なるパクリであるという批判をしている。パクリであるという批判を批判するために「だって、著作権法に違反してないんだから」というのを持ち出すのは、それだけだと根拠として弱いと思いますな。 .だいたい、これを読んでると「『著作権法の正しい理解』と言っている割に、正しく扱ってないのはどっちだよ」と言いたくなる。なぜなら、著作権法は「盗作」や「パクリ」について何も言ってないんだから。そして、私の知る限り、「盗作・パクリ」が「著作権法違反」と同義であるというような定義は存在しない。前者は後者より広い意味で使いうる。それなのに、「盗作・パクリ」と「著作権法違反」とを直結させている。 .この場合、完全に著作権の外の話として論じないといけない。私の認識によると、世の中の慣例では、何かを翻案したらある程度の礼儀を払わなければならない(どの程度かは知らん)。だから、それをしていなければ批判される。これは今回の事実とも合致しているので、おそらくそんなに間違ってない認識でしょう。もちろん、そういう慣例を自分にとって不都合なものであると見做してそれを無くそうとする行動を取るのは、(私は賛同しないけど)別に悪いとも思わない。いずれにしても、それを全然関係のない著作権と結びつけるようだと、これは「何をか言わんや」ということになる。著作権を持ち出して言えることなんてのはせいぜい「著作権法違反ではないのだからパクリと言うな」という程度のことだけだ(そしてさっきも行った通り、これは万人を納得させるにはちと弱い)。しかしどうもこの文章はそれ以上のことを言おうとしているように見える。それはマズい。そこはちゃんと分離すべきでしょう。だいたい、だれも著作権なんてものを持ち出してきてないところで権利者の増長は困るみたいなことを言うのは、いわゆる我田引水という奴ではないでしょうか。 .結局は程度の問題なわけです。実際のところ、「そもそも、萩原朔太郎(1886-1942)の著作権は1983年に消滅しているのです」以降はおかしいけれど、そこまでは「単なる一つの意見」として正当でしょう。確かに、たとえば「テルーの唄の作詞について記載される場合は『萩原朔太郎の詩、こころに着想を得て作詞されました』と表記していただくようお願いいたします」というジブリの「お願い」にどれほどの意味があるのか私にはさっぱりわからないので、こういうことを言うのが「不思議だ」というのは分からなくもない。でも、「ただそれだけのこと」でしかないですねこれは。 |